衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年03月29日    金曜日     第3 回の開示 合計1374回の開示

第八識をいかにして実証するか

第八識を実証することは、人を探すことと大きく変わりありません。仮にある人を探そうとして、思索を重ねた末、その人が特定の地域の部屋にいると確信したとしても、実際にその人を目撃していなければ、果たして人を見つけたと言えるでしょうか。

その人に会わず、直接対面していなければ、決して見つけたとは言えません。たとえその場所にいると確信していても、実際に会っていなければ発見とは認められません。その人の容貌や現在の行動様式、心境、修養の程度を知らず、その場所に本当に探している人物が存在するかも確認していないからです。目撃しなければ事実とは認められません。

どれほど確信を持っていても、実際に目で見なければ人を見つけたことにはなりません。真に発見した時には、その人の行動を直に観察できるものです。これを「目の当たりにする」と言います。

部屋にいると信じていても、具体的な行動内容を知らなければ、何の智慧も生まれません。仮に行動を推測し、正しく当てたとしても、それによって智慧が生じることはないのです。

例えば上司から「某甲を探し出し、彼の行動を確認せよ」と命じられた場合、苦労して調査し「某甲は十一階にいるらしく、おそらく就寝中だろう」と推測して報告したとします。これは某甲を見つけたと言えるでしょうか。

これは推測の域を出ず、たとえ事実と一致しても真の認知とは言えません。直接対面して観察を重ね、智慧を生じさせ、彼から学ぶ必要があります。想像や推測からは決して真の智慧は生まれないのです。多くの修行者が長年停滞するのは、自ら証得していない理解に留まるからです。

第八識を真に証得した後、退転することはあるでしょうか。他人から「某甲は部屋にいる」と聞いて一時は信じても、自ら確認しなければ疑念が生じます。しかし自ら苦労して確認した事実は揺るぎません。「百聞は一見に如かず」とはこの理です。他人の言葉は、自ら経験しなければ真実とは成り得ないのです。

万人集会で第八識の働きを詳細に説き、80%の聴衆が理解したとしても、それは推測による理解に過ぎません。真の明心菩薩とは、自ら第八識を目の当たりにした者を指します。推測による「悟り」は、霧の中の花を見る如く、確固たる根拠を欠くため退転の可能性を孕むのです。

今私がリンゴを剥いて食べる様子を直接観察すれば、剥き方や食べ方を学べ、慈悲の心や貪りを起こさない心境も体得できるでしょう。これが直接対面する利益です。第八識を自証した者は、その働きを眼前に観察し、心性を第八識に近づけることができます。推測に頼る者には、このような功徳の受用は決して訪れないのです。

——生如法師の開示
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