何故に一切の賢聖は皆、真実の法を証得し、無為法を悟りながら、なお差異があるのでしょうか。賢聖には初果から四果に至る声聞の阿羅漢、因縁法の各品位を証得した縁覚、明心の第七住位から妙覚に至る菩薩が含まれます。声聞の初果・二果は賢人、三・四果及び縁覚は聖人、菩薩は初地以前は賢人、初地以降は全て聖人とされます。彼らが悟るものは皆無為法ですが、その内容と次元は大きく異なります。初果の者は五陰の空・無我を証得し、三縛結を断じ、これより三悪道に堕ちず、三悪道への行為を為さざるを得ない状態を離れます。これが最初の五陰無為です。
二果の者は人我空を証得し、心の働きが減少し、煩悩が薄れ、心が幾分清浄となり無為に近づきます。三果の者は更に五陰の虚妄を悟り、色界の禅定境界が現前し、初禅によって貪欲を滅し、瞋恚を断じ、煩悩心を清浄にし、悪業を造らざるを得ない状態を離れ、七識が真の無為を始めます。四果は更に無為を進め、我慢を滅し、色界・無色界への貪愛を断じ、煩悩を尽くし、慧解脱を得て三界に対する無為を成就し、解脱の智慧をもって三界を出離します。定解脱の阿羅漢は四禅定に入り、息脈を断ち、不動無為を証得し、無想定に入り、識陰の滅を悟り、心を無為にします。俱解脱の阿羅漢は時処を選ばず滅尽定に入り、意根の受・想という二つの心所法を滅し、想受滅無為を証得し、随時涅槃を証し三界を出離します。声聞は五陰無我を証得するに従い、心の働きが次第に無為となり清浄を増すため、その無為の境地には大きな差異が生じます。
辟支仏には独覚と縁覚が含まれます。独覚は生生世世に培った善根により、仏法が世に存在しない時代に、世間の生滅現象を観て深く思索し、静寂な処で修道に励み、これらの生滅現象の根源を探究し、十二因縁法と十因縁法を推究して、衆生の輪廻の根が無明にあり、その源が第八識心であることを悟り辟支仏果を証得します。縁覚は仏に随って修行し、仏の説法を聞いて十二因縁と十因縁法を悟り証果します。彼らの無為法の智慧は声聞阿羅漢よりも深遠であり、辟支仏果の位階・智慧・神通にも浅深不同の差異があります。即ち、彼らの心行の無為の程度に差があるのです。
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