衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月12日    金曜日     第3 回の開示 合計909回の開示

『父子合集経』選講

大王よ、このように念ずべきである。我はいかんにして人天の中において眼目となり、長夜の中において照明となり、愛の河においては船筏となり、険難の処においては導師となり、依怙なき者には主宰とならんか。自ら度を得て後に、また他を度すべく、自ら解脱して後に、他を解脱せしめ、自ら安穏を得て後に、他を安穏ならしめ、自ら涅槃を証して後に、また他を証せしむべきである。大王よ、彼らが現在世間において受ける富楽や五欲の自在、諸根の如幻なるを観るべからず。境涯は夢の如しと謂うべきである。色境・声・香・味・触に対し、貪着の心を生じて満足する時なきを。

菩薩は自ら度を得て後に他を度すべく願を発すべきである。自ら度を得て後に初めて他を度すことができる。もし菩薩が救済の心はあれども、自らなお輪廻の苦海に在るならば、衆生を救う力なきなり。例えば、未だ遠方の優れた風景の地に赴かざる者が、他人を導き共に風景を賞することを得ず、途中にて道に迷い、自然と目的地に至ること能わざるが如し。故にまず自ら風景の地に赴き、目に美景を観じ、中間の道筋を明らかにして後に、初めて他人を導き共に往くことを得る。これこそ自ら度して後に他を度す道理である。

菩薩は自ら解脱して後に他を解脱せしむべく願を発すべきである。自ら解脱して初めて他を解脱せしめることができ、自ら三界を脱する力を得て、三界に束縛されざる時に、初めて他を導き共に解脱の正路に向かわしむ。自ら解脱を得ざれば解脱の正路を知ること能わず、衆生を解脱の道に導くこと能わざるなり。

菩薩は自ら安穏を得て後に他を安穏ならしむべく願を発すべきである。仏は既に涅槃の彼岸に至り、究竟の涅槃寂滅楽を得て、身心共に安穏を得たれども、衆生を救い安穏ならしむるために再び三界に戻り、身心なお安穏自在にして、娑婆世界の五欲六塵の境涯に惑わされず束縛されざるが故に、衆生を導き漸く安穏を得しむることを得る。釈迦牟尼仏が娑婆世界に八相成道し、悉達多太子として生を受け、五欲に囲まれながらも、太子の心は早くよりこれらの世間の境涯を離れ、如何なる境涯にも染まることなく、心は安穏を得、全ての境涯に迷倒せず、かつ世間の一切の欲望と親情を捨て、断固として出家修道し、成道の後に広く無量の衆生を度し始められた。菩薩たちもまた諸仏の行いを模範とし、精進修行して身心の安穏を得た後に、無量の衆生を安穏ならしむべきである。もし自心未だ安穏を得ず、貪愛と執着を絶えず、五欲六塵の中にあれば容易に惑わされ、進んで悪業を造り苦を受け続け、これでは自らすら安穏を得ず、如何にして衆生を安穏ならしむることを得んや。

——生如法師の開示
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