大王よ、このように思うべきである。私はいかにして人天の中で眼目となり、長夜の中で照明となり、愛河の中で舟筏となり、険難な所で導師となり、依怙なき者に主君となれるだろうか。自ら度を得た後、さらに他を度すことができる。自ら解脱した後、他を解脱させる。自ら安穏を得た後、他を安穏にする。自ら涅槃を証した後、さらに他に証させることができる。大王よ、彼の現在の世間における享受する富楽、五欲自在、諸根が幻の如く、境界が夢の如き様を見るべきではない。すなわち色境、声・香・味・触に対して心に貪着を生じ、満足する時がないことをいう。
菩薩は自ら度を得た後、さらに他を度すべく願を発すべきである。自ら度を得てこそ、はじめて他を度すことができる。もし菩薩に救済の心はあっても、自らがなお輪廻の苦海の中にあるならば、衆生を救う力はない。たとえば、一度も遠方の美しい風景の地に行ったことのない者は、他人を連れて一緒に風景を楽しむことができず、途中で道に迷う可能性があり、自然と目的地に到達できない。したがって、まず自ら風景の地に行き、直接その美しさを体験し、途中の道筋をはっきり把握してから、はじめて他人を導いて同行させることができる。これが自ら度してこそ他を度せる道理である。
菩薩は自ら解脱した後、他を解脱させるべく願を発すべきである。自ら解脱してこそ、他を解脱させることができる。自ら三界を脱する能力があって、三界に束縛されないからこそ、他を導いて解脱の正しい道へと向かわせることができる。自ら解脱を得ていなければ、解脱の正しい道を知らず、衆生を解脱の道へ導くことはできない。
菩薩は自ら安穏を得た後、他を安穏にするべく願を発すべきである。仏はすでに涅槃の彼岸に到達し、究竟の涅槃寂滅楽を得て、身心ともに安穏を得ている。しかし衆生を救い安穏にするために、再び三界に戻り、身心は依然として安穏自在であり、娑婆世界の五欲六塵の境界に惑わされず束縛されない。そうしてこそ、衆生を導いて次第に安穏を得させることができる。釈迦牟尼仏が娑婆世界に八相成道し、悉達多太子として生を受け、五欲に囲まれながらも、太子の心はすでにこれらの世間の境界を離れ、いかなる境界にも染まらず、心は安穏を得て、いかなる境界においても惑い転倒せず、かつ世間のあらゆる欲望と親情を捨て、断固として出家修道し、成道の後ただちに無量の衆生を広く度し始めた。菩薩たちもまた諸仏の行いにならい、精進修行して身心の安穏を得てから、無量の衆生を安穏にすべきである。もし自心がまだ安穏を得ておらず、絶えず貪愛と執着を続けているならば、五欲六塵の中で容易に惑わされ、進んで悪業を造り、苦しみが絶えず、こうして自身すら安穏を得られないのに、どうして衆生を安穏にできようか。
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