なぜ如来蔵を証悟できるのか。それは金剛経を読誦し、修学することで、その中の義理を貫通し、戒・定・慧の福徳が具足するからこそ、如来蔵を証悟するのである。その後、さらに他の人に宣説し、他人に証悟させ、他人に成仏の基礎を築く。その福徳はさらに不可思議であり、七宝を布施する福徳をはるかに超えている。
仏は須菩提に告げられた。なぜ証悟した後にさらに人々のために宣説すると、その福徳が七宝の布施に勝るのか。なぜなら、一切の諸仏および諸仏の説く仏法は、すべてこの金剛経、すなわち金剛心如来蔵から来ているからである。如来蔵を証悟する前提と基礎の上に立ち、如来蔵の種子の功能を修学すれば、これ以後、次第に仏道を成就し、菩提を円満にすることができる。諸仏の三大阿僧祇劫に修行した善法の種子はすべて自らの如来蔵に存在しており、悪業の種子はなくなり、無明が滅尽すれば仏となる。したがって、諸仏は如来蔵から来て成就し、成就した後に衆生のために一切の成仏の法を宣説する。説かれる法もすべて諸仏の自心如来蔵から流露したものである。諸仏が歴劫に修行した善法の種子は自らの如来蔵に存在しており、これらの種子を流注すれば仏法となる。ゆえに一切の仏法はすべてこの経である金剛心如来蔵から出てくるのである。
仏は須菩提に言われた。いわゆる仏法なるものは、すなわち仏法にあらず。この言葉はまさに主題に緊密に結びつき、この一品の中心句となっている。仏の説く一切の成仏の法こそが、いわゆる仏法であり、人が仏の説く法を仏法と呼んでいるに過ぎない。そして仏の説かれる法は、仏が修持した法種が仏の如来蔵に留蔵され、因縁に基づいて演説されたものである。この法種は後天的に蓄積されたものであり、後天的に形成されたものであり、本来の法ではない。仏が演説する際も因縁に応じて異なる法を説き、この法もまた因縁によって生じた法であり、本来から存在する固定的な法ではない。本来から存在する固定的な法ではない以上、真の意味での仏法ではない。
真の意味での仏法とは、本来から存在し、永遠に不変で、不生不滅であり、因縁によって生じたものではなく、本来より如是なるものである。法爾として如是なる如来蔵・無垢識・真如・第一義諦・第八識・異熟識・大円鏡智である。その他はすべて人為的な命名に過ぎず、方便として仏法と説かれている。要するに、世間法・出世間法において真如一法のみが真実の法であり、真の意味での法であり、本来の法・実相の法である。その他はすべて後天的に生起し、因縁によって形成された生滅可能な法であり、実相の法ではない。
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