衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年04月04日    木曜日     第2開示 合計1389開示

意根と意識は一法のみに縁することができるか?

意根は一法や二法だけに縁することは不可能ですが、その縁する法には重点と偏重面があり、あるものには意を用い、あるものには意を用いず、あるものには心を用い、あるものには心を用いません。こうすることで重点を突出させ、六識に重点部分を了別させることができ、これが定です。

意識も一法だけに縁することは不可能で、多くの場合二法三法などを超えます。例えば意識が念仏三昧の中にある時、重点は仏号と仏念に縁していますが、意識は昼も夜も知っており、歩行坐臥も知り、東西南北も知り、周囲の状況も知り、何を避けるべきかも知っています。念仏以外は何も知らない愚か者のようではなく、それでも意識は三昧定の中にあるのです。眼識が定中にある時は目の前の一つの事物だけに注目しますが、眼識は明暗なども知っています。

これは、定が一法だけに縁することを指すのではなく、注意力が集中し、専注力が十分であることが定の状態であることを示しています。定力の強い人の中には、専注力が強く、同時に幾つかのことを処理でき、無用なところに気を散らさない人もいます。

意根には遍縁性がありますが、必ずしも同時に一切法のすべてに縁する必要はありません。精力が不足すれば一定の選択性が必要で、現在この瞬間に重要で意義があると感じたものに縁し、慣習的に縁する法には慣性作用によって必ず縁しますが、そこにどれだけの精力と注意力を配分するかは定かではなく、心で軽く触れるだけで十分です。

例えば私に五百人を管理する権利があっても、同時に五百人すべてに精力と関心を向けられるとは限らず、それぞれの時間において選択が行われます。意根も同様で、権利は権利、能力は能力、関心は関心です。なぜなら意根の禅定力は精力不足であり、智慧力も不足しているからです。

一方、第八識は異なります。第八識の比類なき楞厳大定、その無上の大智慧は、同時に一切法に遍く縁しながらも、同時に一切法を処理でき、遠近や古今を問わず、時空の隔たりなく加持と処理が可能です。したがって第八識には定も慧もあり、決して七識の定慧が比べられるものではなく、地前菩薩の想像をも超えています。

意根は定心所法と相応しますが、大多数の人の意根には定がありません。禅定を修めた人だけがその意根に定心所を持ち、禅定のない人の意根には定心所がありません。もし禅定のある人の意根にも定心所がないと言うなら、その人の六識はどうして定まっていられるでしょうか?

例えば意根が目の前のスミレに関心を持てば六識に観賞させ、同時に傍らの鳥の鳴き声にも関心を持てば六識は注意を分散させて鳥の声を聞き、やがて意根がまたある人物に関心を持てば六識は注意を分散させてその人物を観察して評価します。このようにして、六識はどうして定を持てるでしょうか?

——生如法師の開示
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金剛経唯識深義(五十八)

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八識に相応する心所法

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