原文:世尊よ。仏は私が無諍三昧を得て、人々の中で最も第一であると説かれました。これが第一の離欲阿羅漢です。私は『私は離欲阿羅漢である』という念いを起こしません。世尊よ。もし私が『私は阿羅漢道を得た』という念いを起こすならば、世尊は須菩提を阿蘭那行を楽しむ者とは説かれないでしょう。須菩提は実のところ行うところが何もないがゆえに、須菩提は阿蘭那行を楽しむ者と名付けられるのです。
釈:須菩提は述べた。世尊よ、仏は私が無諍三昧を得て、すべての声聞の中でも第一であり、最も勝れている、欲を離れた最も徹底した阿羅漢であると説かれました。世尊、私は『私は離欲阿羅漢である』という念いを起こしません。もし私が『私は阿羅漢の道果を得た』という念いを起こすならば、世尊は須菩提が寂静の行を好む者であるとは説かれないでしょう。須菩提には実際に得るものも行うものも実践すべきものもないがゆえに、須菩提は寂静の行を喜ぶ者と呼ばれるのです。四果の阿羅漢は我見を断っただけでなく、自我への執着も断ち、意根が自我の五蘊への貪愛・執着を断尽し、我慢を断じ、心中に完全に無我となっています。私が存在しない以上、人と優劣・是非・長短・強弱を論じることもなく、心中は寂静で清涼です。これが無諍三昧です。須菩提は最も諍いがなく、最も寂静で、人と事に最も順応する者です。
離欲とは様々な欲望、欲界のすべての希求を離れることで、主に男女の欲を指し、財・色・名・食・睡、色声香味触の五塵を含みます。初果を証した後、初禅を発起し、色界の境界が現前すると、身心は極楽となります。この楽触は欲界の様々な楽をはるかに超え、男女の欲の楽にも勝るため、男女の欲を喜ばず、欲界の五塵を喜ばず、財色名食睡を喜ばなくなります。これが欲を断つことです。さらに瞋を断てば五下分結が断尽し、阿羅漢三果人となります。四果阿羅漢はさらに欲を断ち離れた者です。
須菩提は欲を最も徹底的に断じ、第一の離欲者です。しかし須菩提に『私は離欲阿羅漢である』という念いはありません。もし須菩提にこの念いがあれば、そこに自我が存在し、離欲という事柄が存在することになり、心は寂静ではなく清浄ではなくなります。世尊も須菩提を寂静の行を好む者とは説かれないでしょう。須菩提は心中に事なく、欲もなく無為であり、さらに十八界の一切法を空と観じ、すべての行いは空であると考えています。故に須菩提には行うべきものもなく、空幻の法・虚妄の法の中に為すべきことは何もありません。行うすべては空であり、その事実は存在しません。このように須菩提こそが寂静の行を喜び、無為の行をする者なのです。
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