衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年04月05日    金曜日     第1開示 合計1391開示

金剛経唯識深義(六十一)

原文:世尊。仏は私が無諍三昧を得て、人の中で最も第一であると説かれました。私は第一の離欲阿羅漢です。私は『私は離欲阿羅漢である』という念いを起こしません。世尊。もし私が『私は阿羅漢の道を得た』という念いを起こすならば、世尊は須菩提は阿蘭那行を楽しむ者であるとは説かれないでしょう。須菩提は実に行うところが何もないゆえに、須菩提は阿蘭那行を楽しむ者であると名づけられるのです。

釈:須菩提は言っています。世尊、仏は私が無諍三昧を得て、全ての声聞の人々の中で第一である、最も勝れている、離欲が最も徹底した阿羅漢であると説かれました。世尊、私は『私は離欲阿羅漢である』というような念いを起こしません。世尊、もし私が『私は阿羅漢の道果を得た』という念いを起こすならば、世尊は須菩提は寂静行を好む者であるとは説かれないでしょう。須菩提は確かに得るもの、為すもの、行じ持つべきものが何もないがゆえに、須菩提は寂静行を喜び楽しむ者であると名づけられるのです。四果の阿羅漢は我見を断っただけでなく、自我への執着も断ち、意根が自我である五陰への貪愛・執着を断じ尽くし、我慢を断じ尽くし、心中に徹底的に我が無くなっています。既に我が無いならば、人と議論して高低・上下・正誤、是非・長短・強弱を争うことはなく、心中が寂静で清涼となります。これが無諍三昧です。そして須菩提は最も無諍で、最も寂静であり、人と事に最も随順なのです。

離欲とは、様々な欲望、欲界の全ての希望・欲求を離れることで、主に男女の欲を指し、財・色・名・食・睡を含み、色・声・香・味・触の五塵を含みます。初果を証した後、初禅を発起すると、色界の境界が現前し、身心が極楽となります。この楽触が欲界の様々な楽をはるかに超えて勝れ、男女の欲の楽も超え勝れているため、男女の欲を喜ばず、欲界の五塵を喜ばず、財・色・名・食・睡を喜ばなくなります。これが欲を断つことであり、さらに瞋を断つと五下分結が断じ尽くされ、阿羅漢三果人となります。そうすれば四果の阿羅漢はさらに欲を断ち離欲します。

須菩提は欲を断つことが最も徹底しており、第一の離欲人です。しかし須菩提は『私は離欲阿羅漢である』という念いを持っていません。もし須菩提がこの念いを持っているならば、彼には我があり、離欲という事柄があり、心は寂静でなく、清浄ではありません。世尊も須菩提は寂静行を好む者であるとは説かれないでしょう。須菩提は心中に事が無く、欲が無く為すこともなく、また十八界中の一切の法を空と見て、一切の行は全て空であると考えているため、須菩提には行うべきものも何もなく、空幻の法・虚妄の法の中には為すべきものも何もありません。為すこと全てが空であり、その事実は存在しません。このようにして須菩提は初めて寂静行を喜び楽しむ者、為すところのない行の人となるのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

八識に相応する心所法

次へ 次へ

金剛経唯識深義(六十二)

ページトップへ戻る