自らの体重の何倍もある物体に対して、非常に切迫した状況下で、物体の重さを忘れてしまったり、物体の重さを考える暇もなく、ただ物体の下の人を救うことだけに専念した場合、その人は一瞬でその物体を押しのけることができます。人を救い出した後、自分が押したものがそれほど重いものだと気づき、驚いた時、改めてその物体を押そうとしても、もう微動だにできません。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
切迫した状況では、意識に思惟する力がなくなり、末那識(意根)に「この物体は非常に重い」と伝えることができません。末那識は物体の重さを考慮せず、ただ物体を押しのけて人を救うと決意するだけです。結果として末那識は目的を達成します。その後、意識がその物体を見て驚き、その重さを知ると、末那識に伝えます。末那識はその重さを知ると、自らの力では到底その重い物体を押しのけられないと理解するため、如来蔵は末那識を助けようとはしなくなります。
万法はただ心が造り出すものであり、それは如来蔵のみが造り出すものでもあり、末那識のみが造り出すものでもあり、また意識が造り出すものでもあります。意識と末那識が何らかの法を造り出そうと望むだけで、如来蔵は原材料を提供し、産物を生み出します。前提条件は、それが業力に合致することです。禅定がなければ、意識は散乱し、でたらめに指揮し、末那識はそれを聞くや妨げを受けます。禅定の中では意識の力が弱まり、末那識は自らが望むことを自由に行い、成功することができます。ただ意識だけを捉えようとする人々がなんと愚かなことか!意識の周りをぐるぐる回りながら、主人(末那識)を捉え、幹を捉え、重点を捉え、根本を捉えることを知らない、その智慧はなんと浅はかなことでしょう。催眠時に意識を制御し、でたらめな指揮をさせなければ、末那識を利用して多くの秘密を掘り起こすことができ、末那識を変えるのは容易です。過去に戻り、未来へ行くことも、何の問題もありません。
どれほど重い物質でも、たとえ須弥山ほど大きく、須弥山ほど重くとも、それは四大種(地・水・火・風)から構成される物質です。四大種自体に重さはなく、それによって構成される物質色法(形あるもの)も本来重さを持つはずがありません。衆生は無明に覆われてこの理を知らず、業力の故に物質色法の重さを感じてしまうのです。深遠な禅定を得た者は、無明を調伏し、心力が開かれているため、物質やその重さに拘束されることはなく、自由自在に物質を扱うことができます。高く掲げ、粉砕し、組み合わせ、貫通するなど、また自由自在に物質を変現し、四大を自在に操り、物質色法を弄ぶことができるのです。
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