善十一心所法は、時に識心に伴って運行し、時に識心に伴わずに運行する。識心が煩悩を断除して初めて、より多く識心に伴って運行できるようになる。識心が煩悩習気を断尽して初めて、常に識心に伴って運行し、識心が常に善となる。しかし第八識は元来より常に善であり、悪ではなく、煩悩ではない。
悪人の七識の善心所法は偶発的に現れるのみである。善人の七識の善心所法は時に現れ、時に現れない。六七識が識を転じて智となした後は、善心所法が識心に伴って現れることが非常に多く、偶に現れないこともある。ただ仏の七智識の善心所法のみが常に現れ、絶えず現れ、永久に智心に伴って消失しない。
信心所法とは、信じること、確信すること、自信を持つことを指す。善法の存在、功徳作用、善法の力、善法の法則、善法の変遷、善法の結果などを信じることである。しかし真実の信とは、正信、理信、深信、浄信、善信を指し、邪信、悪信、不浄信、不純正心がなく、正理を忍可し、三宝の功徳を深く信じ、自ら必ず仏となれると確信することである。信心所法は常に現前できるものではなく、特殊な状況下、必要かつ必須の状況下において初めて現れる。深厚な善根福徳を有し、劫を経て仏法を学んで初めて信成就に至る。信じた後は、受け入れ、服従し、随順し、その通りに実践するようになる。前七識は全て信心所法と相応し、どの修道位にあろうとも、修道位が高ければ高いほど信は具足する。
慚心所法と愧心所法について、慚は自らに申し訳なく思い、愧は他者に申し訳なく思うことにより、不安、自責、羞恥、後悔などを感じることを指す。心に慚愧があることは、自我が降伏され、自らを省みることを理解し、無我と相応し、自我を高く掲げる自惚れ屋ではないことを示す。六七識は慚愧の二心所法と相応し、どの修道位にあろうとも、修道位が高ければ高いほど慚愧心が強くなる。
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