問:未到定と初禅の境地に至ったときに明心見性が可能であるならば、その際、意識心の知と真心の知をどのように見分けるのでしょうか。明心とはどの心を明らかにするのか、見性とはどの性を見るのでしょうか。
答:未到地定と初禅という二つの禅定の中で明心見性が可能である場合、それは意識が知性を伴って第八識を見出し、あるいは第八識を知り、第八識が五陰の中で働くおおまかな状況を理解することです。したがって、初禅定と未到地定は意識心が入る禅定であり、その後、意識心が思惟観行によって智慧を生じ、第八識の運行の軌跡を発見する、これが明心です。明心とは意識が明らかにする心であり、明らかにする対象は第八識です。見性とは意識心が第八識の性用(はたらき)を見ること、すなわち仏性を見ることです。
明心の時の知と明は、必ず意識心の知と明であり、知と明の対象はともに第八識です。一方、真心である第八識は、開悟明心の理を知らず明らかにせず、自らを求めず、自らを証さず、自らを明らかにしません。
意識心は修行と生活の非常に優れた手段です。それは一切の法を了別し、一切の法を明らかにします。もし意識心がなければ、衆生は何事も知らず明らかにすることができません。仏法を学び修行する際には、意識心を十分に活用し、それを使って分析、思惟、判断、推理、求証を行い、最終的に一切の法を理解し、一切の法を証得し、それを使って仏道を成就すべきです。極めて深い禅定を修める必要がない時は、意識の作用を弱めるべきではなく、ましてや意識を滅ぼしてはなりません。なぜなら、意識という手段がなければ物事を行えず、思惟も観行もできず、参禅もできず、甚深の智慧を得ることができず、成仏は意識にかかっているからです。
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