尋と伺の区別
尋とは、心の粗重な造作であり、探し求め推し量り、推論し導き出し、思惟し分析することである。
伺とは、心の微細な造作であり、待ち受け、参究し、伺察し、細かに思惟し、細かに研究することである。
尋は、一般的に意識の心の思想活動である。意根にも尋の行為・造作はあるが、観察するのは非常に難しい。意識が某些の人事物を忘れた時、意根は尋の状態にあり、意識は尋の状態かもしれないし、伺の状態かもしれない。意根が伺の状態にある時、意識は既に尋をしておらず、伺もしていない可能性もあり、完全に意根が単独で作業している。
意根の伺は尋よりも観察しやすいが、その行相はあまりに微細である。故に無数の人々が意根の大部分の心所法を否定し、存在しないと考えるが、実際には観察できないだけである。知らず理解しないからといって、安易に否定するこの心の状態は実に良くない。智慧を増長させることもできず、誠実でもない。誠実さもまた一種の心所法であり、善の心所法に属するが、五十一の心所法には含まれていない。凡ての心の造作、心の形態、心の行相、心の性質は、全て心所法に属し、善なるものもあれば悪なるものもある。
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