衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年04月10日    水曜日     第2 回の開示 合計1406回の開示

尋と伺の違いとは

尋と伺の区別

尋とは、心の粗重な造作であり、探し求め推し量り、推論し分析し、思惟を巡らすことである。

伺とは、心の細密な造作であり、待機し参究し、観察し、細かに思索し、精密に研究することである。

尋は通常、意識心の思想活動である。意根にも尋の行為と造作が存在するが、観察するのは極めて困難である。意識が某些の人事を忘れた時、意根は尋の状態にあり、意識は尋の状態か、あるいは伺の状態にあるかもしれない。意根が伺の状態にある時、意識は既に尋を止めており、伺も行っていない可能性がある。完全に意根が単独で作業している状態である。

意根の伺は尋よりも観察し得るが、その行相はあまりに微細である。故に数多の者が意根の大部分の心所法を否定し、存在しないと考えるが、実際には観察できないだけである。知らず理解せず、安易に否定するこの心構えは甚だ宜しからず、智慧を増長せず、誠実でもない。誠実さもまた心所法に属し、善心所法たるものであるが、五十一心所法には含まれていない。凡ての心の造作、心の形態、心の行相、心の性質は、全て心所法に属し、善悪を有するものである。

——生如法師の開示
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