参禅する際は、初めは意識の尋(心を粗く対象に向ける作用)が働き、禅定が深まるにつれて意識は伺(心を細かく対象に向ける作用)に転じ、意根(末那識)が尋を始めます。禅定がさらに深まり疑情(疑いの念)が濃厚になると、意根は伺に転じます。意根の疑いが深まり、伺察(注意深く観察する状態)に転じた時、証悟(悟りの境地)は間近であり、いつどこでも証悟が可能となります。したがって証悟は依然として意根が先に悟り、意識が後に悟るか、あるいは意識と同時に悟るのです。
一方、解悟(理論的理解による悟り)は完全に意識の尋伺活動であり、意根はまだ参与を始めておらず、解悟が深い場合でも意根の参与は少なく、伺は存在せず、せいぜい尋がある程度です。
尋伺について考えると、意識が一念不生(一つの妄念も生じない状態)の時であっても、意根は決して一念不生ではなく、意根は依然として思量(思考・分別)を続けています。それが何を思量しようとも、全て尋伺に含まれ、たとえ「思量しないというそのこと」を思量する場合も、これまた意根が尋伺しているのです。
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