私が「師匠は良い師匠である」と申し上げる際、意識による証自証分がございます。もし私が非常に確信を持ってそのように考え、一点の疑いもないならば、同時に末那識(意根)による証自証分も存在するのであります。そして末那識の証自証分は現量に属し、意識の証自証分は必ずしも現量とは限りません。末那識の自証分も現量であり、意識の自証分は必ずしも現量とは限りません。現量とは、絶対に疑いがなく、微塵の疑念も抱かない状態であります。非量は最も疑いを起こし信じがたく、比量も心に確信が定まらず、依然として疑いが絶えません。したがいまして、これらは現証には属しません。参禅の結果には、意識と末那識の見分と自証分、および相分が含まれます。参禅の結果は、末那識の自証分であり、証自証分ではございません。証自証分は自己を証明するために用いられ、他の法を証明するためのものではございません。
1
+1