原文:何故かというと、我相は即ち非相である。人相・衆生相・寿者相も即ち非相である。何故か。一切の諸相を離れることを、諸仏と名づける。何故か。一切の諸相を離れることを、諸仏と名づける。仏は須菩提に告げたもうた、その通りである。もしまた人が、この経典を聞いて驚かず怖れず畏れないならば、当に知るべし、この人は甚だ希有であると。
釈:須菩提が申し上げた、世尊よ、なぜ実相般若心を証得した後、内心に四相がなく、四相を離れるのでしょうか。なぜなら我相は真実の相ではなく、表面上は存在するように見えますが、実際には真実ではないからです。実相を証得した人は、真心如来蔵の働きを観察し、如来蔵がどのように五陰の私を生み出すかを観察します。彼は次第に、自身の五陰がすべて如来蔵によって刹那刹那に幻化されたものであることを観察するようになります。
五陰の一切の活動は、すべて如来蔵の機能作用であり、五陰自体は真実に何かを為したわけではありません。五陰の法は虚妄不実であり、その本質はすべて如来蔵です。例えば魔術師が五陰身を幻化すると、この五陰身には一定の機能作用がありますが、この五陰身には実体性がなく、その機能作用も真実に存在するものではなく、すべて魔術師の所作です。また例えば操り人形が舞台で演じる場合、この人形が舞台上でどのように演技しても、それはすべて自身の行為ではありません。
したがって人形の一切の活動は幻化されたものであり、実体がなく、本質はすべて裏方の操縦者の所作です。私の五陰の活動も同様であり、ゆえに五陰の我相は非相であって真実の相ではありません。同様に、これに類似する人同分(人間としての共通性)の人相もまた同様に、真実の人間としての五陰相は存在しません。人類が世の中でいかに生活し活動し、様々な事業を行っても、真実の五陰活動はなく、その本質はすべて如来蔵性です。ゆえに人相は即ち非相なのです。
さらに同様に、人相に類似する衆生相も虚妄不実であり、表面上は存在するように見えますが本質は無であり、その実体はすべて衆生の如来蔵性です。衆生の五陰の活動は、まるでロボットが作業するようなもので、ロボット自体は自在ではなく自主性がなく、人為的な組み立てと操作を必要とします。そうするとロボットが真実に何らかの仕事を行うことは不可能であり、すべては設計・製造・操作者の所作であって、ロボットはただ仮の姿を現して人目を惑わしているに過ぎません。
したがって経営者は決してロボットに給料を払わず、ロボットを賞罰することもありません。なぜなら経営者は明らかに知っているからです。ロボットは人間ではなく、人間の知恵や能力を持たず、それは単に人間に利用される道具に過ぎず、仕事はロボットが行ったのではありません。衆生の五陰もこれと同じで、一切の事業は五陰が為したものではなく、五陰は単なる道具に過ぎません。ゆえに衆生相は即ち非相であり、真実ではなく、実体も存在しないのです。
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