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日常法話

2019年04月11日    木曜日     第2開示 合計1410開示

意根は重大かつ変動する法塵のみを縁とするのか?

意根の働きを如実に現量で観察できない人は、意根に対して多くの誤解を抱くことになります。楞厳経の中で仏は、意根は黙して一切法を容れると説かれています。この一切法の範囲は極めて広く、如来蔵が何らかの法を変現できるなら、同時にその法を了別することができ、意根は如来蔵に随ってその法を縁することができるのです。これが仏経の意味です。

意根は重大な法塵のみを縁し、しかも変動しているものでなければならず、重大でなく変動していないものは縁できない、と言う人がいます。本当にそうでしょうか。もし意根に縁しない法があるとすれば、六識はなおさら縁することができません。意識が了別し出した法は、すべて意根が触れ、了別したものなのです。実際、日常生活において、意識は法塵が重大であるか否か、変動しているか否かにかかわらず、すべて了別し出すことができます。例えば、蚊の羽音、自分の心臓の鼓動の音、耳の中の微小な音、腹の中の音、このように微細な音を意識が知っているということは、それが意根によって攀縁されたものであり、意根は必ず先に触れ、先に了別していたはずです。ただ細緻なところまで了別できないため、意識という六識が生まれて了別を助けるのです。したがって、重大であれ微小であれ、意根は如来蔵に随ってすべて縁することができ、すべて了別することができるのです。比較的重要で有用なもの、あるいは慣習的に了別しているものについてのみ、六識を生じて了別させているのです。六識が生じて了別しなかった部分についても、意根は依然として縁することができ、了別することができるのです。ただ意識が知らないだけです。

たとえ法塵が変動していなくても、意根はずっと了別し続けることができます。例えば、意識と眼識が動かない景色を一日半日かけて見ることができるなら、意根はその景色に一日半日触れ続けて動じないのであって、頻繁に変動する法塵しか触れないわけではありません。また、法塵のみを縁して五塵を縁しないということもありません。例えば、意根はまず一大片の色彩に接触し、個々の色彩にのみ興味を持ち、そこで自分の興味のある色彩の上に眼識と意識を生じて共同で了別し、その他の色彩は了別しないのです。

本当に仏法を学んで成就を得たいと願う者は、必ず真理と事実の真相に依止すべきであって、人に依ってはならず、権威に依ってはならないのです。

——生如法師の開示
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修行過程における意根心所法の転変

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