意根の働きを現実のままに観察できない人は、意根に対して多くの誤解を抱くことになります。楞厳経において仏陀は、意根が黙って一切の法を容れると説かれています。この一切の法の範囲は極めて広大であり、如来蔵がどのような法を現じ出すかによって、同時にその法を了別することができ、意根は如来蔵に随ってどのような法にも縁することができるのです。これが仏典の趣旨であります。
ある人は、意根は重大な法塵のみに縁り、しかもそれは変動するものでなければならず、重大でなく変動しないものには縁れないと主張しますが、果たしてそうでしょうか。もし意根に縁らない法があるならば、六識はなおさら縁れません。意識が了別した法はすべて、意根が触れ、了別したものなのです。実際の日常生活において、意識は法塵が重大であるか否か、動くか否かにかかわらず、すべてを了別することができます。例えば蚊のブンブンという音、自分の心臓の鼓動、耳の中の微かな音、お腹の音など、これほど微細な音でも意識は認識しています。これはまさに意根が攀縁した結果であり、意根が必ず先に触れ、先に了別しているのです。ただし、細部まで了別できないため、意識などの六識が生まれてそれを手助けしているに過ぎません。したがって、重大であろうと些細であろうと、意根は如来蔵に随ってすべての法に縁ることができ、すべてを了別できるのです。比較的重要で有用である、あるいは慣習的に了別していると認識した場合にのみ、六識を生起させて了別させるのです。六識が生起しなくても、意根は依然として縁ることができ、了別することができます。ただ、意識がそれを知らないだけなのです。
たとえ法塵が変動しなくとも、意根は常に了別し続けることができます。例えば、意識と眼識が動かない景色を一日中あるいは半日見続ける場合、意根はその景色に一日中あるいは半日触れ続けても動かないのです。決して、頻繁に変動する法塵にのみ触れるわけではありません。また、法塵にのみ縁り、五塵には縁らないということもありません。例えば、意根がまず大量の色彩に触れ、その中で特定の色彩に興味を持つと、その興味を持った色彩に対して眼識と意識を生起させて共同で了別し、他の色彩については了別しないのです。
真に仏法を学び成就を得ようとする者は、必ず真理と事実の真相に依止し、人や権威に依ってはなりません。
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