それでは、衆生の五陰によって現れ出た生命相や寿者相もまた非相であり、実在するものではない。衆生がある期間における生命活動、例えば呼吸、新陳代謝、飲食排泄などは、表面的には実在するように見え、真実の意義があるように思われるが、実際には如来蔵が現れ出た仮相であり、如来蔵によって与えられたもので、その本質も如来蔵である。この一期の生命がどれほど長く続こうとも、その生命の実質は即ち如来蔵である。衆生に真実の生命相は存在しないため、寿者相は即ち非相である。
なぜ我・人・衆生・寿者の四相が非相であり、不実の相であると言うのか。法界の実相は一切の相を離れているため、四相あるものは虚相・仮相・生滅相であり、法界の実相ではなく、真実の相でもない。実相である金剛般若の不壊心、すなわち諸仏の法身は、一切の相を離れ、四相も一切の相も存在しない。故に真の仏は無相であり、真の仏は説法も行わない。一切の相を離れた仏こそが諸仏の法身仏であり、真の意味における仏である。五蘊相を有する仏は報身仏・応身仏・化身仏であり、法身仏が幻化した仏であって真仏ではない。
世尊は須菩提に告げられた。「その通りである。まことにその通りである。もしこの金剛般若波羅蜜経を聞く者が、聞いた後に心に驚きも恐怖も畏れも生じないならば、この者が極めて得難く稀なる者であり、善根福徳の極めて厚き人であることを知るべきである」
なぜ世尊はこのように説かれたのか。金剛般若波羅蜜経には大乗の空理がことごとく説かれ、衆生に四相を離れ一切の相を離れ、いかなる相も執着しないよう教えている。しかし衆生は無始劫以来、四相に執着し一切の相を掴み取り、捨て離れることを拒んできた。衆生の心には我執が深く、我見が重く、一切の相を有と見て空と見ることがない。
衆生は無始劫以来ずっと有に深く依存してきたため、金剛経で説かれる空や無を聞けば必ず恐怖と驚愕を覚える。自らが空に落ちることを恐れ、無に帰することを怖れ、無始劫以来頼り続けてきた杖を捨てることを拒み、寄る辺なき状態を恐れて空虚になることを畏れる。故に心に恐懼と怖畏を生じるのは、善根福徳が不足し、前世における修行の時劫が短い者である。逆に、この経典で説かれる四相の無と離れを聞いて心に怖畏を生じない者は、長劫にわたり修行を積み、善根を深く培った者である。このような者が金剛経を聞いて驚愕せず、清浄な信心を生じ、四相を離れた金剛般若心を証得できることは、まことに稀有なるべき存在である。
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