真に参禅して修行に励む時は、禅定が深いため、意識はほとんど何もせず、ただ意根が伺(うかが)いの状態にあって深く究明し続けます。やがて因縁が具足すると、意根は突然に五蘊(ごうん)の上で作用している如来蔵(にょらいぞう)を見出し、そこで証悟(しょうご)します。同時にこの消息を意識に伝え、意識はそこで豁然(かつぜん)として悟り、意根とほぼ同時に証悟するのです。意根が指揮して意識に大腿(だいたい)を叩かせます。意根が証悟したならば、その時の身心は平常とは異なる反応を示し、身心軽安(しんじんきょうあん)となり、心情は愉悦喜び、軽やかで自在となります。意識だけの理解では、これらの兆候や反応は現れません。なぜなら意識は主導せず、身根(しんこん)を支配できないからです。禅定がなければ、あるいは禅定が浅ければ、意根は役に立ちません。それは意根が縁(えん)とする法(ほう)が多く、単独で参究できず、意識と共に参究できないためです。
一般的に、真に何らかの法を証得(しょうとく)した場合、必ず禅定があり、意根が参究の過程に関与します。最終的には常に意根が証悟し、その後で意識に伝えます。もし意識が先に証悟し、その後で意根に伝える場合、意根は十分に参究思量(しりょう)することができず、意識の見解を無理に同意するだけであり、悟りの程度は浅くなります。意根が完全に十分に理解しておらず、容易に退転(たいてん)します。意根自らが先に証悟した場合は、往々にして非常に堅固な確信を持ち、退転することはありません。
一方、意識が単独で情思意解(じょうしいげ)する場合、意根は思考活動全体に関与していません。たとえ意識がある理(ことわり)を理解しても、意根は依然として朦朧(もうろう)としており、疑惑が重重(じゅうじゅう)としています。意識心は粗いため、通常は意根の心理状態を発見できません。意識が単独でいかなる結論や答えを導き出しても、それは究竟(くきょう)せず徹底しておらず、証拠がないか、あるいは証拠が不十分です。退転するかしないかの議論には至りません。なぜなら根本的に前進していないので、後退(こうたい)どころではないからです。
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