禅定が深ければ深いほど、意根はより活用され、禅定が浅ければ浅いほど意根は無力になる。退転するかしないかは意根にあり、意根がしっかりと自ら参究思量して答えを探し、一旦結論に至れば、それは非常に確信し、疑うことはない。誰もが自分自身を最も信じているからである。
したがって、努力が少なければ証得は浅く、疑いを断ち切れず、将来退転しやすい。意根が証得しなければ、疑惑は少しも消えず、証得に属さないため、結縛を断つことができず、したがって退転の問題には及ばない。もし如来蔵を参究する場合も、如来蔵への転依の問題には及ばない。なぜなら証得していないのに、どうして依ることができようか?依ることができなければ、転ずることもできない。前進がなければ、退歩もない。ただ意識上で精魂を弄しているだけなら、臨終の際に大きな損をし、後悔しても間に合うだろうか?
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