原文:何の故にか。須菩提よ。如来の説く第一波羅蜜は、即ち第一波羅蜜に非ず。是れを名づけて第一波羅蜜と為す。須菩提よ。忍辱波羅蜜は、如来の説くところ、忍辱波羅蜜に非ず。是れを名づけて忍辱波羅蜜と為す。
釈:世尊は開示して説かれた:何故に四相を離れたる人を第一稀有と説くのか。須菩提よ、如来の説く第一波羅蜜といえども、真実の第一波羅蜜の相あるわけではなく、ただ仮に名づけて第一波羅蜜と呼ぶのである。菩薩たちが六波羅蜜を修行すれば、明心見性し、涅槃の彼岸に到達しうる。しかしこの六波羅蜜もまた非相であり、実有の相ではなく、ことごとく如来蔵の幻化せる生滅の仮相であって、如来蔵の実相に依って存在する。また菩薩の五蘊の幻身に依ってこそ六波羅蜜を修行しうるのであり、五陰身が実体でない仮相である以上、五陰身に依って修行される六波羅蜜は、なおさら仮相であり、非相である。ゆえに仏は説かれる、第一波羅蜜は即ち第一波羅蜜に非ず、第一波羅蜜の真実なる自体性はなく、ただの名を第一波羅蜜と為すのだと。
世尊は続けて説かれた:須菩提よ、忍辱波羅蜜は、如来の説くところ真実として存在する忍辱波羅蜜ではない。ゆえに忍辱波羅蜜もまた非相であり、実有の実相ではなく、したがって仮に忍辱波羅蜜と名づけるのである。いわゆる忍辱波羅蜜とは、実際には一つ一つ、あるいは無数の虚仮の事相に過ぎず、いずれも実相そのものではない。これらの虚仮の事相は、七識心の心行の相であり、七識心の運行によって顕現される相であって、これまた如来蔵より出生し顕現された相である。表面上は有るように見えるが、実質的には無であり、如来蔵とは不一不異の関係にある。
なぜなら、これらの忍辱波羅蜜の修行は、生滅変異する法であって、常恒不変のものではないからである。一つの忍辱行為が造り出されれば、やがて滅し、次に別の忍辱行為が生じてはまた滅する。無数の忍辱行為が菩薩の忍辱波羅蜜を構成し、菩薩はこれに依って生死の彼岸に到達しうるのである。
忍辱行為は五陰身と七識の行為である。五陰そのものがなお非相であり、七識は刹那に生滅変異し、六識は毎日断滅を繰り返す。いずれも虚妄不実である。ましてや五陰七識に依って存在する忍辱行は、なおさら非相であり、虚妄である。ゆえに忍辱波羅蜜には自体性がなく、自在なるものではない。ただの表相、名前に過ぎない。名を以て命名された虚妄の行為造作であり、その本質は如来蔵そのものなのである。
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