原文:富楼那よ。また汝が問うに、地水火風は、本性円融にして、周遍法界なりと。水火の性相容れずして相陵滅するを疑い、また虚空及び諸の大地の、俱に法界に遍じながら相容れぬことを徴する。富楼那よ、譬えば虚空の体は群相に非ずと雖も、彼の諸相の發揮を拒まざるが如し。何となれば、富楼那よ、彼の太虚空は、日照れば則ち明るく、雲屯すれば則ち暗く、風揺るれば則ち動き、霽澄めば則ち清く、気凝れば則ち濁り、土積もりて霾となり、水澄みて映となる。汝の意いかん。かくの如く殊方の諸の有為の相は、彼に因りて生ずるか、はたまた空に有るか。若し彼の生ずる所ならば。
富楼那よ、且つ日の照らす時は、既に日明なり。十方世界、同じく日色たるに、何ぞ空中に更に円日を見るや。若し空明ならば、空は自ら照るべきなり。何ぞ中宵雲霧の時に、光耀を生ぜざるや。知るべし、是の明は日に非ず空に非ず、空日に異ならざるを。相を観ずるに元より妄にして、指陳すべきなし。猶お空華を邀えて空果を結ぶが如し。何ぞ其の相陵滅の義を詰めんや。性を観ずるに元より真にして、唯だ妙覚明のみ。妙覚明の心は、先より水火に非ず。何ぞまた相容れぬ者を問わんや。真妙覚明もまた是の如し。
汝が空を明かせば、則ち空現じ、地水火風各々発明すれば、則ち各々現ず。若し俱に発明すれば、則ち俱に現ず。何が故に俱に現ずるや。富楼那よ、一水の中に日影を現ずるが如し。兩人俱に水中の日を観て、東西に行くこと各々同じからず。則ち各々日に随いて去る。一は東に一は西に、先に準的無し。難じて言うべからず、此の日は一なりと。何ぞ各行くや。各日既に双なれば、何ぞ一を現ずるや。宛転虚妄にして、憑据すべき無し。
釈:楞厳経の此の段は世尊と富楼那の対話なり。前提の大意は是くの如し。富楼那は故意に世尊に問うて曰く、地水火風の四大種子は其の本性円融無礙なりと雖も、何ぞ水火相容れず、水は火を滅し、火は水を滅し、地は虚空を阻むやと。
世尊は答えて曰く、此の道理は虚空の譬喩の如し。虚空の体は一切の色相に非ずと雖も、虚空は色相の存在を阻まず。太虚空の中に於いて、太陽照射する時は、虚空は即ち光明なり。雲彩囤積する時は、虚空は即ち暗黒なり。風刮るれば、虚空は動相有り。雨止む時は天空晴朗なり。気聚る時は、空気は濁り、土積もりては小山丘を成し、水澄めば物を照らすことを得。
汝は如何に思うや富楼那よ。此等の各々異なる有為の法相、光明・暗黒・風動・晴朗等は、太陽・雲彩・風雨・土地・河水等に因りて出生するか、或いは虚空に因りて出生するか。若し太陽等の物に因りて出生するならば、太陽照射する時は、太陽の出生する光明なり。十方世界に光明有るも、皆な太陽光なるべきに、何ぞ十方世界に太陽無くして只だ光明を見るのみなるや。(此の意味は、光明は太陽の出生する所に非ず、如来蔵の出生する所なり。太陽無き世界に於いても尚ほ光明有りと)
若し光明は虚空の出生する所ならば、虚空の中には時を問わず光明有るべきにして、暗黒の時有るべからず。故に光明は太陽に由りて出生するに非ず、亦た虚空に由りて出生するに非ず。即ち如来蔵の出生する所なり。但し太陽と虚空を離れて光明有るに非ず。太陽と虚空は如来蔵が光明を出生するの助縁なり。
此等の相を観察するに、皆な虚妄不実なるを発見す。然るに尚ほ彼の空華を弄りて空果を結ばんとするは、更に不可能にして、更に虚妄なり。故に水火に相陵滅する現象無く、水火の生生滅滅は皆な如来蔵に由る。相手に因るに非ず。大地と虚空も亦た是くの如く、皆な如来蔵の因由なり。
故に如来蔵の性質を観察すれば即ち真実不虚なり。一切法の性質は皆な如来蔵性にして、皆な如来蔵の妙覚明性なり。然るに如来蔵の妙覚明性には水火性無し。何ぞ水火相容れぬと説くや。
真心妙覚明性も亦た是くの如く、如来蔵性なり。汝の心、虚空を明かさんと欲すれば、虚空は即ち現ず。汝の心、地水火風を明かさんと欲すれば、地水火風は各々現ず。若し此等の法を同時に現ぜんと欲すれば、則ち此等の法は同時に現ず。
如何にして同時に現ずるや。富楼那よ、譬えば一水の中に日影を現ずるが如し。兩人、水中の日を同観し、然る後二人各々東西の方向に行く。則ち各々日に随いて去る有り。一は東に一は西に。汝は難じて曰くべからず、此の日影は本来一つなりと。何ぞ今二つ現じて二人に随い各々処に行くや。二人の日は合わせて二つなり。何ぞ最初水中に一つの日影を現ずるやと。此れ如何に思うも皆な虚妄にして、何らの証拠も見出せず。実に水中に幾つの日影有るとも、皆な如来蔵が出生し幻化せる所なり。仮令天空の太陽も亦た如来蔵が出生し幻化せる所なり。此等の日影に何らかの真実性有りと思い、推測して曰く、明らかに一つの太陽なるに何ぞ二つ三つ或いは多くに変ずるやと為すこと勿れ。因縁有れば如来蔵は万象を出生し、因縁無ければ如来蔵は出生せず。法界の規律は即ち是の如し。
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