衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年04月13日    土曜日     第3開示 合計1422開示

金剛経唯識深義(八十五)

如来という言葉は、明らかに五蘊身の仏を指し、暗に法身仏を指します。法身仏は形も相もなく、仏の無垢識と衆生の如来蔵です。成仏後、仏の七識と法身の無垢識は、その性徳が近く、七識は完全に無垢識に転依し、全ての無明を滅尽します。その心性は真如に非常に近く、心所法は同じで、五遍行心所・五別境心所・善十一心所があり、八識は全て二十一の心所法です。

法身仏の如来は、真如の心体を指し、如来蔵を指します。真語は、正真の言葉です。現量の言葉であり、如来蔵が現量の境を顕わすことができるという意味で、比量や非量はありません。全て事実に合致し、衆生の業種にも合致し、常にありのままに衆生の業行の原貌を現出します。

実語は、ありのままの言葉です。衆生が業を造る際、善悪や無記に関わらず、如来蔵はありのままに記録・収存・出力し、衆生の業果をありのままに実現します。決して衆生の業行・業種・業果報を変更したり漏らしたりせず、どのような業であればそれを記録し、どのような果報であればそれを実現します。

如語は、一方で真実の言葉を指し、他方で心体の如如不動性を指します。心を動かさず、心行がありません。如来蔵が一切の法を変造する際、内心は如如不動で、心を生じ念を動かすことがありません。情緒も感情もなく、完全に捨受です。

不誑語者とは、誑(欺く・騙す・詐す)であり、如来蔵は決して衆生を欺いたことがなく、騙したことがありません。しかし衆生の六識は常に口業が不善で、言葉で欺き、真実の言葉を語らず、ありのままの言葉を語りません。妄語・両舌・綺語・悪口が絶えず、よく東を指して西を打ち、桑を指して槐を罵り、事実の真相を隠し、嘘をでっち上げ、ありのままでない言葉・妄語・嘘・短所の庇い・賢者への嫉妬を語る習慣があり、あらゆる口業を造ります。

不異語者とは、異(変異・異なる・変化・別の・別異)です。異語とは、表では一つのことを言い、裏では別のことを言うこと、甲にはあることを言い、乙には別のことを言うこと、あるいは今はあることを言い、後で別のものに変わること、これは二様の言葉、あるいは言い終わると変わること、言ったことを守らないことです。これらの心行は全て六識心の心行であり、六識の造る口業が不善で、口徳がないとはこのことです。また悔いることも恥じることも知らず、悔い改めを知らず、悔いも恥もないことは、即ち煩悩の悪習です。しかし如来蔵は決して二様の言葉を語らず、異なる言葉を語らず、あれこれ変わることもなく、めちゃくちゃになることもありません。衆生の善業種を収存して悪業種を出力し、衆生に悪報を受けさせることはなく、逆に悪業種を収存して善業種を出力し、衆生に善報を受けさせることもありません。表では一つのことを言い、裏では別のことを言うことはなく、一切の変異が起こらず、業種と因果に対して不忠実になることはありません。

そして五蘊身を持つ報身仏・応身仏・化身仏も、法身仏と同じく、永遠に真実を語る者であり、永遠に真実の語る者であり、永遠に如の語る者であり、永遠に欺かない者であり、永遠に異なる言葉を語らない者です。仏の七識心は一切の無明煩悩及び煩悩習気を滅尽し、究竟に識を転じて智と成し、その徳は比類なく無上であり、その口業は完全無欠で一点の瑕疵もなく、円融無碍で、十方世界の全ての衆生をして比類なき敬慕と頂戴を捧げさせます。

——生如法師の開示
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