心所法とは識の心行であり、七つの識の心行は不断の修学を通じて自心を降伏させ続けることで、心行は不断に転変し、深重な煩悩から軽微な煩悩へと変化し、軽微な煩悩が消滅し、善心所法が次第に増大強化され、心行はますます清浄となり、定力はますます固く、智慧はますます深く透徹していく。ゆえに心所法は必ず修行を通じて不断に変化するものである。もし修行をある期間行っても心所法に何ら変化がなく、煩悩が軽減せず、禅定力が生起せず、智慧が増進しないならば、その修行はまだ力を得ていないのである。
仏道を学ぶ者の修行成就の可否は心所法に現れる。真に成就する時、第六・第七識の煩悩心所法は減少滅除し、善心所法は増加具足し、五別境心所法の機能は増加具足する。仏地に至れば八識全てが完全に二十一の心所法を具足し、その機能は極限に発揮される。真の学仏者は定期的に自らの心所法、すなわち心行を観察すべきである。もし心性に何ら変化が見られないならば、修行がまだ力を得ておらず、正道に乗っていない可能性がある。各人の修行の段階と進展は異なり、心所法も異なる。これは人の心がそれぞれ異なることを示している。もしある者が自らの意識心の心所法が五十一あると述べつも、意根の煩悩心所法が依然として元のまま多いならば、その者は仏道初心者であり、煩悩極めて重く、人徳も甚だ劣っている。
一般的な菩薩論で説かれる心所法は凡夫と未転依位の菩薩の八識心所法を指し、既に転依位に至った菩薩の八識心所法を指すものではない。これらの心所法は不断の修行に伴い転変を遂げ、識を転じて智と成すことで初めて修行上の成就を表し、成仏の道が漸く円満に近づく。心所法の転変こそが修行成就の証である。
実際、未転依位の間でも仏門に入り修行に一定の成果を得れば、幾つかの識の心所法は密やかに転変し始める。ただ量の蓄積が不十分なため、質的飛躍には至らない。心所法は修行の有無を示す指標であり、外道が禅定を修得した場合でも、彼らの七識の心所法には変化が生じる。心所法は不変不異で万人同一のものではない。未修行の衆生の識心心所法もまた完全に同一ではなく、各々異なる側面を有する。ゆえに各人が現観する自らの心所法は千差万別であり、これが人性の差異、人心の多様性を物語る。
もし現量観察によって自らの第六識心所法に貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の六根本煩悩、八つの大随煩悩、二つの中随煩悩、十の小随煩悩を認める者がいれば、その者は全く修行しておらず、禅定もなく、人徳品行も極めて劣悪である。一般人は第七識心所法を現量観察できないが、仮に自らの第七識心所法に強烈な貪瞋癡、懈怠・散乱・不信・失念・掉挙・不正知・放逸・昏沈、強い我執、深い慢心、深い貪執、強烈な我見、攀縁性などを観察し、かつ固執して改め難いならば、その者は全く修行しておらず、禅定も発起し難い。
もし第七識心所法が善十一心所法と全く相応しないならば、その者の修行は全く軌道に乗っておらず、煩悩が極めて重く、恐らく悪人である。普通の人が仏法を学んでいなくても、意根の心所法には善の面がある。もし善が悪を上回れば、その者は命終すれば天界に昇り福を享ける。六道輪廻は意根心所法の善悪によって決定され、意根が善なら善業をなして来世天界に昇り、意根が悪なら悪業を造り来世地獄に堕ちる。ここから初地以降の転依位にある菩薩は煩悩を断じ、心性が無漏に達するため、必然的に第六・第七識心所法が転変し、煩悩心所法が滅除され、善心所法が増加し、定心所法と慧心所法が強化される。これは絶対必然であり、さもなくば凡夫と異ならない。
修行が力を得る時、大随煩悩がまず軽減し、一部は滅する。例えば不信心所法が軽減滅し、不信から次第に信へ、完全な信へと至る。懈怠心所法が軽減滅し、次第に精進するようになる。放逸心所法が軽減滅し、以前は常に身心を放縦して逸楽に耽っていたが、今はそれらに興味を失う。昏沈心所法が稀になり、以前は修行する度に昏沈を感じたが、今は精力旺盛で注意力が集中する。掉挙心所法も減少消滅し、以前は学仏時に妄念が乱れ飛んだが、今は経験した事柄を過ぎ去らせ、未来を妄想しない。以前は心が常に散乱していたが、今は仏法を思考する際、一定時間精力を集中できる。四聖諦・四念処などに対する不正知が全て正知へと転じる。以前は心に仏法を念じても直ぐ忘れたが、今は念じ続けて失念しない。
修行が深まるにつれ、中随煩悩も軽微となり滅する。例えば以前は過ちを犯しても無慚無愧であったが、今は慚愧心が次第に増す。大きな過ちを犯せば非常に慚愧を覚える。ここに見るように、煩悩心所法が減少軽減すれば、善心所法は相応して増加増強し、煩悩心所法が滅すれば善心所法が現前する。
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