衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年04月14日    日曜日     第1開示 合計1424開示

七識の心所法は固定的ではありません

心所法とは識心の心行であり、七つの識の心行は絶え間ない修学を通じて自心を降伏させ続けることで、心行は絶えず転換していく。深重な煩悩から軽微な煩悩へと変わり、軽微な煩悩が消滅し、善心所法がますます増大し強化されるにつれ、心行はますます清浄となり、定力はますます固く、智慧はますます深く透徹していく。したがって心所法は修行を通じて絶えず変化していくものである。もし修行をある期間続けても心所法に何ら転換がなく、煩悩が軽減せず、禅定力が生起せず、智慧が増進しなければ、その修行はまだ力を得ていないことになる。

仏法を学ぶ者の修行成就の有無は心所法に現れる。真に成就した時には六・七識の煩悩心所法が減少・滅除され、善心所法が増加・具足し、五別境心所法の機能が増強・具足する。仏地に至れば八識は完全に二十一の心所法を具足し、その機能は極限に発揮される。真の学仏者は一定期間ごとに自らの心所法、すなわち心行を観察すべきである。もし心性に何の変化も見られなければ、修行がまだ十分でないか、あるいは正軌に乗っていないことを示している。各人の修行の段階と進展は異なるため心所法も異なり、これは人心がそれぞれ異なることを説明している。もし自らの意識心の心所法が五十一もあり、意根の煩悩心所法が依然として元のまま多いと主張する者がいれば、その者は仏法初心者であり、煩悩が極めて重く、人品も極めて劣っていると言える。

一般的に菩薩論で言及される心所法は凡夫および未転依位の菩薩の八識心所法を指し、已転依位の菩薩の八識心所法を指すものではない。これらの心所法は絶え間ない修行に伴い転換を遂げなければならず、そうして初めて識を智に転じることができ、修行上の成就を代表し、成仏の道が次第に円満に近づくのである。心所法の転換は修行成就の証左である。

実際、未転依位の前段階においても、仏門に入り修行に一定の成果が現れた後は、幾つかの識の心所法は密やかに転換し始める。ただしその量が十分に蓄積されていないため、質的飛躍には至らないのである。心所法はその者に修行があるか否かの指標であるため、たとえ外道が禅定を修得した場合でも、彼らの七識の心所法には何らかの転換が生じる。心所法は不変ではなく、万人同じものではない。まだ修行を始めていない衆生であっても、彼らの識心心所法は一様ではなく、それぞれ異なる側面に偏りがある。したがって、ある者が自らの心所法をこのように現観し、別の者が自らの心所をあのように現観するのは必ずしも同じではなく、これが人性の差異、人心の多様性を説明している。

もし自らが現量観察によって第六識の心所法に、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の六根本煩悩、八つの大随煩悩、二つの中随煩悩、十の小随煩悩があると認める者がいれば、その者は全く修行しておらず、禅定もなく、人品德行の修養も非常に劣っていると言える。一般に人は自らの第七識心所法を現量観察できないが、仮に現量観察によって自らの第七識の心所法に強い貪・瞋・癡、及び懈怠・散乱・不信・失念・掉挙・不正知・放逸・昏沈・執我性強・慢心深重・貪執深重・我見強烈・攀縁性があり、かつ固執して改め難いと認める者がいれば、その者は全く修行しておらず、禅定も起こりにくい状態である。

もしその者の第七識の心所法が善十一心所法と全く相応しないならば、その者の修行は全く軌道に乗っておらず、煩悩が非常に重く、おそらく悪人であると言える。たとえ普通の人が仏法を学んでいなくても、意根の心所法には善の一面がある。もし善が悪を上回れば、その者は命終すると天に昇り福を享受できる。六道輪廻は意根心所法の善悪によって決定され、意根が善であれば善業を行い来世は天に昇り、意根が悪であれば悪業を造り来世は地獄に堕ちる。ここから、初地以降の已転依位の菩薩は煩悩を断除し心性が無漏に達するため、その六・七識の心所法は必然的に転換を遂げ、煩悩心所法は滅除され、善心所法は増加し、定心所法と慧心所法は強化される。これは絶対的な必然であり、そうでなければ凡夫と変わらない。

修行が力を得た時、まず大随煩悩が軽減され、一部は滅する。例えば不信心所法が軽減・滅し、不信から次第に信じ始め、完全な信へ至る。懈怠心所法が軽減・滅し、次第に精進するようになる。放逸心所法が軽減・滅し、以前は常に身心を放縦して安逸享楽に耽っていたが、今ではそれらに全く興味を持たなくなる。昏沈心所法がほとんど現れなくなり、以前は修行するとすぐに昏沈を感じたが、今では精力が非常に旺盛で注意力が集中している。掉挙心所法も減少・消失し、以前は学仏時に妄念が飛び交っていたが、今では経験した事柄は過ぎ去って留まらず、未来を妄想することもない。以前は心が常に散乱していたが、今では仏法を思考する際に一時的に精力を集中できるようになる。四聖諦・四念処などに対する一切の不正知が、今では正しい知見を持つようになる。以前は心の中で仏法を念じていても直ぐに忘れたが、今では念じ続けて失念しないようになる。

修行が深まるにつれ、中随煩悩も軽微になり、やがて滅する。例えば以前は過ちを犯しても慚愧なく平然としていたが、今では次第に慚愧心が増し、大きな過ちを犯せば非常に慚愧に思うようになる。ここから、煩悩心所法が減少・軽減するに従い善心所法は相応して増加・強化され、煩悩心所法が滅除されれば善心所法が現れることが分かる。

——生如法師の開示
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修行の証は心所の転換である

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