凡夫と凡夫の心所法も異なっており、仏法を学ぶ前と学んだ後の心所法はますます異なることが望ましい。もし仏法を学んで十年二十年経っても、心の状態や心の働き(心所)が相変わらず変わらないならば、その人は数十年間いったい何をしていたのか。もし何年も学んでも、心の働きや心所に何の変化もなく、煩悩がある程度まで調伏されていないならば、初果を得た者の心所や心の働きとは依然として大きな差があり、どうして初果に向かう方向(初果向)へ趣き、さらに初果を証入できようか。心が変わらないのに聖人の果があるならば、徳が位に伴わなければ、必ず災いが生じる。
修行によって七覚分が発起すれば、心所法は必ず変化する。もし変化がなければ、七覚分は具足しておらず、七覚分が具足していなければ如何なる方法でも証果はできない。多くの人々が七覚分の端にも届かないのに、大きな聖人の果を得て家に持ち帰り享受している。これが末法の世である。
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