大乗菩薩の修行は小乗の人とは全く異なると言う者がいる。小乗の人は煩悩を断ち解脱を求めるが、大乗菩薩は如来蔵のように煩悩を断たず解脱を求めないべきだという。しかし、如来蔵に断つべき煩悩などあるだろうか。如来蔵は何の法によって束縛されているだろうか。如来蔵は本来煩悩なく、本来解脱している。如来蔵には無明がないのだから、当然無明が尽きることもない。七識に煩悩があれば煩悩を断ち、七識が解脱していなければ解脱を求め、七識に無明があれば無明を破らねばならない。さらに言えば、大乗菩薩に根本煩悩があるのは言うまでもなく、不信・懈怠・放逸・昏沈・掉挙・失念・不正知・散乱という八つの大随煩悩、そして無慚・無愧という二つの中随煩悩が明らかに世人の前にさらされている。これを菩薩と言えるだろうか。心が十一個の善心所法と全く相応していない。これを大乗菩薩と言えるだろうか。このような菩薩が衆生の模範となり手本となり得るだろうか。広大な衆生はこのような菩薩に何を学べるというのか。結果や利益や名声だけを求め、解脱の功徳を求めないという悪しき風潮を止めなければ、仏教は必ず急速に滅びるであろう。
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