音を聞く際には、耳識の参与があり、意識の参与があり、同時に第七識と第八識の参与があります。これら四つの識はすべて形も相もありません。音を聞いて悟りを開こうとするならば、どの識が第八識であり、どの識が第七識であり、どの識が意識であり、どの識が耳識であるかを明確に区別しなければなりません。これらの識が和合して作用する中で、必ず真心と妄心を見分け、その後に真心を認め取ることが、すなわち明心開悟であります。
福徳・定力・慧力が具わっていない場合、往々にして妄を真と認め、意識心を第八識の真心として悟ってしまいがちです。意識心を悟った際にも空の覚受が生じ、内心が一時的に清浄となり、人や物事を空として観じ、仏典を多少理解できるようになり、空理を当てはめることもできます。しかし第八識が如何にして五陰七識の万法を具体的に生じさせるかについては、誤って悟った者は決して知ることができません。これが真の悟りと誤った悟りの分水嶺であり、毫厘の差が千里の謬りを生む所以であります。
意識心と第八識は共に無形無相であり、ある種の類似点を有しています。一般の人は意識が少し清浄になり、雑念妄想がなくなり、心の起伏が消えて、清明に身心内外の一切の境界相を感知できる状態に至ると、このような清明状態の意識心を、本来無念無知の清浄なる第八識であると錯覚し、主人公を取り違えてしまいます。意識が如何に清明であろうと、如何に無知であろうと、意識心が存在する限り、六塵境界を知る「知」が存在します。あるいは意識に定があれば、定境を知る「知」も存在します。従ってこれは第八識ではなく、真の開悟ではありません。ただ自己の意識心が愚痴に覆われ、自らが置かれた状態を内観することが困難なため、これを第八識の無知であると錯覚し、第八識を証得したと決めつけるのです。これはいかに大きな誤解であります。
実際、意識心が極めて微細になると、その内観力も微弱になります。さらに仏道修行者が意識心の本質を理解していないため、意識心を第八識の真心と誤認する現象が極めて普遍的に見られます。現在、自ら悟りを開いたと称する者は至る所に存在しますが、多年を経ても智慧は元のままで進歩がなく、禅宗の公案も経典も依然として理解できずにおります。
よって自ら悟りを開いたと信じる仏教徒に対し、自らの生死の大事のために、速やかに立ち返って自らの悟りの内容を検証するよう勧めます。経典と照らし合わせて検証し、意識の本質と第八識の本質を再び詳細に分析・判定し、真心と妄心の種々の相違を厳密に区別した上で、菩薩として必要不可欠な条件を円満に具足させるよう努力すべきです。菩薩としての要件が全て具足した後に改めて禅に参究し、真実の仏門に入り、真実義の菩薩となることを求めるべきであります。
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