修行の過程とは、心所法を捻じ曲げて変革する過程であり、最終的に八つの識がすべて二十一の心所法を円満に具足すれば、大小乗における無学となる。初地以上の菩薩は、根本煩悩・大随煩悩・中随煩悩が断除され、六識と七識が識から智へと転じ、無生法忍の智慧を得たため、心所法はすべて二十一の心所法と相応するが、五別境心所法はまだ究竟しておらず不完全であり、強化が待たれ、善十一心所法も強化と増進が必要であり、小随煩悩はさらに滅除を要する。地上の菩薩は大乗法における痴煩悩が断尽していないため、無痴の善心所法を具足せず、またある菩薩の意根には慢心所法が未だ断尽しておらず、二十一の心所法はなお不断の完善と強化を必要とする。ただ仏地における八識二十一の心所法のみが完全かつ究竟であり、これ以上の増進は不要である。
初地菩薩から八地菩薩まではなお煩悩習気の障りがあるため、心所法は純粋ではなく純善ではない。八地菩薩に修至すると小随煩悩は滅尽し、煩悩習気は断除され、染汚の種子もまた一部分除去されるため、二十一の心所法はより完善かつ強大となる。したがって修行は煩悩と習気の断除と大いに関係があり、修行の目的は煩悩・煩悩習気およびすべての無明を断除して解脱を得ることにあり、無明が断尽すれば即ち仏道を成じ究竟の解脱を得る。五別境心所法の機能は、煩悩習気が不断に除去されるにつれてますます強大となり、すべての神通力は五別境心所法に関係し、すべて五別境心所法によって成就されるが、もちろん五遍行心所法の補助も離れない。修行の不断なる増進に伴い、識心は必ず変化を起こし、識心が変化すれば即ち心所法の転換となる。心所法の変化こそが修行の結果である。
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