衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年04月17日    水曜日     第2開示 合計1435開示

初めて我見を断つことはなぜこんなに難しいのでしょうか?

意根が意根を立てるとは、自証分を証するものである。意根は自らが常に至る所で主導権を握り、選択的に振る舞う性質を我と執着するが、これもまた生滅変化し実体のない幻であることを知らない。意識は果たして意根のこの絶え間ない主導性・選択性と恒常的な審査思量の性質を真実の我として執着しているのだろうか?いったい誰の意識がこれほどまでに意根の機能作用に執着し得るというのか?もし意識がこれらの機能作用が全て意根のものであることを知らず、それを意識自身の機能作用であると見做すなら、これは錯覚による執着であり、意識もまた智慧を欠いている。

意識が自ら六塵を了別し分別する機能作用を真実の我と認めること、これが意識の自証分である。これは誤認であり、この誤認が意根にも同様の誤認を引き起こす。意根のこのような誤認を正すため、まず意識に「意識の機能作用は真実ではなく、我ではない」と反省させ、以て意根を薫習させる。一旦意根が薫習され、意識の機能作用を真実の我と認めなくなった時、我見は断たれる。

これらの仮の我は、主として意根が認定するものである。意根は色身を「我(意根)のもの」とし、六識の機能作用を「我のもの」とし、六塵を「我のもの」とし、五根を「我のもの」とし、意根自身の機能作用さえも「我のもの」とする。一切の法が全て「我のもの」であると言える資格を持つのは意根のみである。なぜなら一切の法は確かに意根に奉仕するために存在し、意識も五識も、如来蔵さえも含まれるからである。故に意根というこの我はかくも自信満々で、かくも頑固一徹で、かくも強情で、かくもお高くとまり、かくも盲目で、かくも不可逆的である。それゆえ初めて我見を断つことがかくも困難であり、仏法を学んだ後もなお生死の海で浮き沈みを長く繰り返し、ようやく海から頭を擡げ、立ち上がり、岸辺へと歩みを進め、岸に到達して自在を享受し、憂い悲しみ苦悩から解脱するのである。

——生如法師の開示
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修行の目的は一切の無明を打破し、解脱を得ることです

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金剛経唯識深義(九十五)

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