意識や意根は本質的に本来いわゆる自己なるものは存在せず、全て如来蔵自身の戯れであると考える者もおります。意識も意根も我ならず、全て如来蔵であるという理解は相似の解釈に過ぎず、信頼に足りません。このような認識はあまりにも表面的で、何の根拠もなく、意識すら真実とは認められず、ましてや意根に至っては尚更真実とはなり得ません。真に証得した時に初めて、意識も意根も我ならず、第八識を証得した後、現観によって第六・七識が如何に第八識より生じるかを知り、始めて第六・七識の本質もまた第八識であることを真に理解するのです。このような現観は非常に困難で容易ならざる業であり、多大な証量と優れた禅定力を要します。そうでなければ依然として理解の域を出ず、解釈の要素が多分に残ります。
ある法理は万年理解したとしても、証悟の縁が現れる保証はありません。真実の証悟には累生累世にわたる善根・福德・各種見道の資糧の積聚が必要であり、口先だけで簡単に証得できるものではございません。
仏世において人々が容易に証悟したと主張する者もおりますが、実際にその果を得た時、彼らは既に相当の期間にわたって福德の資糧を積み、戒定慧を具足させており、仏という大いなる因縁に遭遇したことにより、一瞬にして証悟したのです。彼らの前世の身分は皆特異であり、生生世世を通じて修行に極めて精進しておりました。中には多くの者が示現であり、仏陀の弘法に協力するため、様々な身分の者を集め、十方世界より来たりて仏陀の御業に呼応したのであります。
何故このように申すかと申しますと、例えば仏法を学ぶ者ならば畜生道が六道輪廻の一つであることを知っております。我々も前世において畜生の身を受けたことがあり、畜生の肉を食することは衆生への慈悲心に欠け、畜生への負債を負い、将来倍返しせねばならぬことになります。しかしこのような知識に何の役立ちましょうか。全て実証を伴わず、ただ仏陀の説かれた因果の道理を信じているに過ぎず、自ら経験したことも忘却しているため、心中なお半信半疑の状態にあり、肉食を断つ戒めがかくも困難なのであります。信ずるは信ずるも、実行は別物、実証なき信仰は活用し難いものです。現在学ぶ全ての理論的知識も同様で、意識では理解し認めていても、実証が伴わぬため、この解釈は依然として実際の作用を持ち得ません。生死の大事において容易に証悟することは不可能であります。無量劫また不可説劫にわたり輪廻を重ね、不可説なる無明の深淵に沈んでいる者が、書物を読み、学び、理解しただけで証得できるものでしょうか。多くの者が僥倖を抱いておりますが、これは実は便宜主義の心理が作用しており、正に大多数が依然として無知であり、無明が深いことを証明しております。
真に我見を断つ時、断じた者は一人残らず実直になります。誰が断じても実直になるのは、真実の無我を証得し、真に無我を知るが故に、心直ちに謙虚となり、もはや自我を誇示せず、証果を得たと自慢することはないからです。もし誇示の心があれば、我見は断たれておらず、しかも証果を得た我という新たな我が出現し、こうして二つの我が現れれば、当然従前よりも煩悩が重くなり、全く不遜極まりなく、我慢の炎が盛んとなるのであります。
私が遭遇した証果明心の数多くの方々は、皆やや横暴不遜で、自らを天よりも高しと感じ、心中に二つの我を抱き、一つ一つが明らかであるにも関わらず自覚せず、まさに果報に害せられた所以であります。
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