衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年04月17日    水曜日     第5開示 合計1438開示

禅定の境地

初禅では時間と空間の観念が存在し、いつ、どこにいるかを知覚しています。二禅では念が感じられず、無覚無知の状態で、出定して初めて自分が入定していたことに気づきます。四禅にも念が存在するとは、私は初めて耳にしました。

二禅において、意根には念が存在しますが、意識はそれを認識できません。なぜなら入定が深まり一切を知覚しない状態でも、誰かが「過斋(食事の時間)」と小声で言うと即座に聞き取り、心が定から出てしまうからです。このように微かな音を感知し出定できるのは、意根が食事のことを気にかけているためであり、小さな音を捉えると意識に認識を生起させ、出定に至るのです。

二禅では意識は滅しておらず、非常に微細であるため、私は何も自覚できず入定中であることも分からず、あたかも一切を知らない状態です。二禅で意根が食事を気にかけていなければ、誰かが「過斋」と言っても出定しません。私が入定している際、周囲の数十人が互いに会話しているにもかかわらず、彼らの声は一切聞こえず、「過斋」という言葉だけが感知されたのです。

四禅を経験したことがないため、その中の意識心の状態を知ることはできません。実証がなければ発言権はありません。三禅には一日入ったかもしれませんが、あまりにも快楽が強く魔に陥るのを恐れ、当時は禅定をよく理解していなかったため捨ててしまい、今になって禅定を取り戻そうとしても不可能です。二禅では既に意識に内省力がなく、当時の意識がどのような状態であったかも分かりません。

——生如法師の開示
前へ前へ

悟りは累世の修行の成果である

次へ 次へ

金剛経唯識深義(九十六)

ページトップへ戻る