初禅においては、時間と空間の観念が存在し、いつ・どこかを知覚しております。第二禅に入ると、念が感じられず覚知もなく、出定して初めて入定していたことに気づきます。第四禅に念が残るとの説は、初めて耳にしました。
第二禅において、意根には微細な念が存在するものの、意識はこれを認識できません。深く入定しているため無知無覚の状態でありながら、誰かが「過齋(食事時間)」と囁けば即座に聞き分け、心が定から出るのです。かすかな音を感知し出定できるのは、意根が食事を気遣い、その音を契機に意識が分別を生じさせるためでございます。
第二禅では意識は滅しておらず、ただ極めて微細であるため、自覚することは叶わず、入定の自覚もありません。仮に意根が食事を気にかけていなければ、過齋の呼び声があっても出定しないでしょう。私が入定中、周囲の数十人の会話は一切聞こえず、ただ過齋の言葉のみが感知された事実がこれを証しております。
第四禅を体験せずして、その意識の状態を論ずることはできません。実証なき者に発言権はございません。第三禅には一日入ったかもしれませんが、あまりの歓喜に魔境を恐れ捨て去りました。当時は禅定を深く理解せず、今さら引き戻すことも叶わぬこと。第二禅においては意識の反照力は失われ、その時の意識状態を知る由もございません。
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