究竟無我分第十七
この章において世尊は究竟無我を説き、須菩提に菩薩が広大甚深な菩提心を発し、無量の衆生を救済した後、我執と衆生執を滅除し、我相と衆生相を離れ、心に次第に究竟無我を体得すべきことを示される。実際の真理においても我は存在せず、人我も法我も共に滅尽すべきである。これによって初めて甚深なる菩提心と相応し、自我を降伏させ、心を清浄にすれば、諸仏より授記を受けて仏となる。たとえ成仏しても心は無我の空であり、成仏という法相もなく、衆生を度すという法相もなく、いかなる法相も存在しない。
原文:その時須菩提、仏に白して言う。世尊。善男子善女人、阿耨多羅三藐三菩提心を発するに、云何に応じて住すべきか。云何が心を降伏すべきか。
釈:この時須菩提は世尊に申し上げた:世尊よ、善男子・善女人が阿耨多羅三藐三菩提心を発した後、いかに心を安住させ、いかに己が心を把持し、いかに心を降伏すべきでしょうか。
これは須菩提が衆生に代わって世尊に問うたもので、菩薩たちが大乗菩提心を発した後、いかにこの心を住持し把捉すべきか。ここで言う心とはどの心か。菩提心を発する第六・第七識の心を指し、真実の菩提心を発しない真如の如来蔵を指すのではない。如来蔵は何らの心も発せず、心行なく、願望なく、成仏を欲せず、その心行は無住である。須菩提の智慧をもってしても、世尊に如来蔵の住持法を問うはずがなく、また世尊も金剛般若の無住体性を説かれている。須菩提が問うのは、菩提心を発する妄心が清浄な大願を発した後、依然として従前のように世俗法の色声香味触法に住し、五陰に執着すべきか、これらの世俗法のために発心すべきかを尋ねている。大乗菩提心を発した後は、もはや従前のように一切の世俗法相に執着すべきではなく、貪瞋痴の煩悩を燃え立たせるべきでなく、この心を降伏すべきであるが、いかにして降伏すべきかを問うのである。
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