衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年04月18日    木曜日     第1開示 合計1440開示

意根を変えてこそ、一切法を変えることができる

唯識の修証において、意根が核心である。なぜなら如来蔵は誰の指摘も必要とせず、変化することもなく、ただ意根に心を用いるのみである。意根を変えれば人を変え、凡夫から果地仏に至るまで、意根を変えることによってのみ一切の法を変えることができるからである。

すべての無明は意根にあり、意根の無明を破れば仏となる。意根を変えれば種子が変わり、種子が変われば仏となる。意識の無明はすべて意根から来ており、意根に依って初めて意識と意識の無明が生じる。意識と意識の無明は断ち切りやすく、全く難しいことではない。難しいのは意根にある。したがって意根の心所は意識より少なくなるはずがなく、意識の心所法とほぼ同等であるべきだ。禅定力と観察力がともに深刻に不足していると、意根を証得することはおろか、意根の心所法の運行を観察することもできず、意根がどの法における運行状態も知らず証得しない。そこで軽率にも意根の様々な心行を否定し、あえて意識の心行であると言い張るのである。

意根が法を証得しなければ無明を破ることはできず、意識の無明を破っても何も変わらない。今のところ見ると、意識にいかなる工夫を施しても無意味であり、一切の法の修証は意根に触れなければ根本的な問題を解決できない。この考え方をはっきり理解すれば、仏法の修証について言うべきことは何もないはずである。

——生如法師の開示
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金剛経唯識深義(九十六)

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意識と意根の修行上の関係

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