推理は永遠に現量観察に代わることはできません。もしそれが実証的な現量観察に代わり得るなら、仏が自らの心に証得した境地を少しずつ全て私たちに話し聞かせ、その後私たちが数十年かけて理解し暗誦し発揮し、ついに完全に身につけたなら、それで仏になるのではないでしょうか?数十年かけて仏の智慧と完全に同等になるとは、なんと手軽な修行方法でしょう。なぜ仏はこのような修行を教えなかったのでしょうか?戒定慧を修める必要もなく、あれほど苦労する必要もなかったはずです。このように修行すれば一生で成仏することは難しくないのに、なぜ諸仏は三大阿僧祇劫という長い期間も修行する必要があったのでしょうか?仏の言葉を暗誦するのは戒定慧や菩薩の六波羅蜜を修行するよりも無量倍楽です。もし仏が全ての仏法修証の秘密を私たちに教えてくれたなら、私たちはみな一切種智を実証し、速やかに成仏できたのではないでしょうか?
真実の道理は口伝によるものであり、自分自身の胸中から取り出したものではありません。それは永遠に偽物であり、風浪に耐えられません。意識による推理を多用すると、意根は力を発揮できなくなります。禅宗の祖師方が最も嫌い反対したのは、まさにこの意による推測、情思による理解であり、真の修行ではないと言います。意識心を多用すると、意根は修行できなくなり、それでは実証できません。これが消えればあれが伸びる。いったい誰の知見と証量が最も優れているのでしょうか?
意根の主導性は実証の基礎です。もし意根を用いて実証しなければ、世界中の誰もが煩悩深き聖人になり得ます。意根を用いて実証するのは、長い修行を積んだ大善根・大福徳の人だけが証得できるもので、そのような人は極めて少数です。各自が食事をして各自が満腹になるように、意識が知り証得したものは意根に代わることはできず、意根自身も知り証得しなければ疑いを断ち切れず、生死の問題を解決できません。意根に証得させようとするなら、禅定は欠かせません。なぜなら実証とはすなわち三昧であり、あらゆる三昧は禅定から離れることはできないからです。禅定がなければ三昧はなく、三昧がなければ実証はありません。道理はこの通りであり、どれほど密意を知っていても無意味で、疑いを断つことはできません。
私自身の身の上において、禅定がある時はどのような智慧か、身心はどのような状態か、禅定がない時はどのような智慧か、身心はどのような状態か、はっきりと感じ取ることができます。したがって禅定がなければ意根は力を発揮できず、実際の証量もなく、煩悩も降伏できません。
実証の前提には禅定が必要であり、さらに理にかなった思惟があって初めて智慧が生まれます。智慧を生み出すには、禅定は必要条件の一つであって、全てではありません。しかし禅定がなければ、真実の智慧は決して生まれず、乾いた智慧(実践を伴わない知識)はあり得ますが、実際の問題を解決する智慧は得られません。外道の禅定を取り入れ、それに私たちの観行の智慧を加え、両者を結合させれば、深遠な仏法を証得することができます。両者が分離すれば、実証はありません。さらに菩薩の六波羅蜜、三十七道品など、全てを修めなければならず、飛び越えることはできません。これらの条件が満たされて初めて実証が可能になるのです。
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