衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年04月19日    金曜日     第2 回の開示 合計1443回の開示

金剛経の唯識深義(一〇〇)

仏は言われた。「その通りである、その通りである、須菩提よ。真実に如来が阿耨多羅三藐三菩提を得るという法は存在しない。須菩提よ、もし如来が阿耨多羅三藐三菩提を得る法が存在するならば、然燈仏は私に授記を与えられなかったであろう。『汝は来世において仏となるべし。号して釈迦牟尼と称す』と。実に法を得る阿耨多羅三藐三菩提は存在しないが故に、然燈仏は私に授記を与え、このように宣言されたのである。『汝は来世において仏となるべし。号して釈迦牟尼と称す』と。」

釈:世尊は仰せになった。「その通りである、その通りである。須菩提よ、真実に一つの法もなく、如来が仏果を得ることはない。如来は一つの法に依り止まって仏果を得るのではない。もし一つの法、あるいは多くの法があり、如来が依り止まって阿耨多羅三藐三菩提を得るならば、然燈仏は私に『汝は未来世の某時に仏果を成就し、釈迦牟尼仏と号すべし』との授記を与えられず、仏国土のあり方、弟子のあり方、仏法の流布などについても記述されなかったであろう。」世尊はさらに続けられた。「心の内に真実として認めるに、如来が依り止むべき法なくして阿耨多羅三藐三菩提を証得するが故に、然燈仏は私に『汝は未来世の某時に仏となるべし。仏号は釈迦牟尼仏である』と授記されたのである。」

ここでいう如来は、表面的には五蘊の身を備えた仏世尊を指すが、内実は真如の心体である金剛般若心を指す。仏の金剛不壊の心は、無始劫より一法も得たことがなく、成仏という法すらも得ていない。これは有所得の心ではなく、貪る心でもなく、自らが一切の法を円満具足し、一法も欠けることなく、世間のすべてはこの心より生じる。仏法に対しても、真如の心体は何も得ず、自ら仏を学び法を修することなく、仏と法はすべて自らを指す。故に自らを学ぶ必要はない。

この心は戒定慧を修することも、貪瞋痴を滅することも、無明を破ることもない。自ら戒定慧を具足し、無明も貪瞋痴も存在しない。四相八相を除く必要もなく、自らは一相も持たず、いかなる相にも執着せず、相と相応せず、かえって無量無辺の相を顕現する。故に如来は真実に阿耨多羅三藐三菩提を得る法を持たない。

五蘊の身を備えた如来は、無相の真実なる如来心体に依り止まり、一法も得ず、仏法も得ない。身心内外は清浄無垢、何ものにもとらわれず、真如の心体と相応じ、一切の法と相を捨て去り、仏法すらもすべて捨て去って初めて仏となる。心に一法でも空浄でなければ、仏道を成就することはできない。仏道を成就し仏果を得たとしても、実際には仏果を得るものはなく、『得ない』という法すらも得ない。有所得の法、有相の法はすべて空幻であり、この境地に至って初めて仏となり、仏世尊となるのである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

推論は現量の観察を決して代わり得ません

次の記事 次の記事

如来蔵を証得しなければ我執を断つことができるのか

ページのトップへ戻る