阿羅漢は如来蔵を証得しなくても、我執を断じたのではないでしょうか。辟支仏(縁覚仏)も同様に、如来蔵を証得せずとも執着を断じます。初禅以上の禅定において、五蘊十八界を徹底的に観行し、一切の煩悩を断除すれば、我執は即ち断尽され、三界への未練がなくなり、命終すれば確実に往生し、再び戻ることはありません。
大乗菩薩が我執を断じるには、如来蔵を証得した後、更に如幻観・陽炎観を経て、禅宗の三関を突破し、如夢観を過ぎて初地に入り、初めて我執を断ずる能力を得ます。しかし完全には断じられず、もし完全に断じれば無余涅槃に入ってしまいます。
初禅の定もなく、陽炎観や禅宗三関を望むことなど到底叶いません。第一関すら実証していない者が、日々如夢観を観行しても禅定がなければ、観じ続けるうちに如夢観を証得したと錯覚する、この誤解は如何に大きいことか。一般的に、初めての証悟から如夢観に至るには数大劫の時を要し、一生で如夢観を修めることは不可能です。ましてや禅定を修めなければ、全ての観行も門前払いとなります。
初地に入ってから法執を断ち始めますが、法執は極めて微細です。小乗の智慧では法執を断つことができず、如来蔵を証得した地上菩薩の智慧のみが法執を断つ能力を有します。あらゆる微細な法が如来蔵から生起し執持されるものであり、真実ではなく無我であると証得する時、一つの法執が断たれるのです。
さて、皆様は実修とは何かを理解できましょうか。何が「実」で、何が「修」か。誰もが自らを実修者と称しますが、戒定慧のいずれかを欠けば、それは「実」でも「修」でもありません。この道理に異議を唱える者があっても、何の役にも立ちません。
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