例えば、花は色法であり、色彩の色塵と鮮やかさ、妖艶さ、美しさ、富貴さなどの無表色の法塵、高矮・大小・長円などの形色の法塵、姿勢・形状などの表色の法塵を含みます。
色彩は粗色で眼識が了別し、その他は細色で意識が了別します。意根も全てを了別しますが、ただ了別が不分明なため、眼識と意識に協力を求めて了別させるのです。
色法におけるこれら四種の塵は全て色塵に属し、外相分の本質境と内相分の影像を有しています。内相分の影像に対し、第八識は触れるのか触れないのか。了別するのかしないのか。知るのか知らないのか。第八識如来蔵は一切の法を知り、触れざる所なく、知らざる所なきべきです。もし第八識が了別も知覚もできないなら、どうして内相分の影像を変現し改変できましょうか。
例えば家具を動かそうとする時、家具が見えなければ、どうやって動かすことができましょうか。例えば饅頭を作ろうとする時、小麦粉の在処も盆の在処も水の在処もまな板の在処も知らず、これらの物の使い方も水面の状況も鍋の在処も火元の在処も分からなければ、この饅頭をどう作ることができましょうか。
もし人が癌になるべき時、第八識が身体の状態を了別しなければ、どうして身体に癌を現じ、どこに癌細胞を生じさせるかを知ることができましょうか。手術も同様です。第八識が目を生じさせる時、胎児の色身の状況を了別しなければ、どこに目を生やすのが適切でしょうか。身体にポリープが生じる時、第八識が色身の状況を了別知覚しなければ、どこにポリープを生やすのが適切でしょうか。意根が食事をしようとする時、第八識が食事を了別せず、意根を了別せず、六識の状況を了別しなければ、六識はどうして食事ができましょうか。
第八識は具体的に六塵の境界が何であるかを了別せず、七つの識のような了別機能の属性を持ちません。例えば一団の飯があれば、人は了別して食べ、鬼は了別して食べ、犬は了別して食べ、蟻や蠅は了別して食べ、細菌は了別して食べます。これらの衆生は皆了別でき、天人も了別でき、仏菩薩も了別できますが、了別の内容・方法・結果は同じでしょうか。種々の勝解はそれぞれ異なり、種々の所見は皆成立します。故に一切は唯識であると知るべきです。
第八識が外相分の本質境を了別するのも特別な了別であり、七つの識の了別とは全く異なります。私たちには想像もつきません。
0
+1