衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年04月20日    土曜日     第1開示 合計1446開示

金剛経唯識深義(一〇三)

原文:須菩提よ、譬えば人身の長大なるが如し。須菩提言く。世尊よ、如来の説く人身長大なるは、即ち大身に非ず、是れ名づけて大身と為す。

釈:世尊は説かれた:須菩提よ、譬えて言えば人身の長大なることは、即ち一切の法の中の一つの法である。須菩提は答えて言う:世尊よ、如来の説かれる人身長大の相は、真実の大身ではなく、ただ大身という名を取っているに過ぎません。なぜ如来の説かれる大身が、即ち大身に非ずと言われるのか? 人身体の大小相貌は、ただ如来蔵が幻に現じ出した仮の相であって、実質がなく、実質的な大小の相もないからです。これは如来蔵が四大種子を用いて積み上げた一つの幻相であり、その大小長短は全て相対的に説かれるもので、必ず或る物を参照し、比べる対象があって初めて大小長短と名付けられるのです。そしてその比べる対象もまた真実ではなく、依存性も比較性もありません。よって人身の長大なるは、即ち大身に非ず、名目上の大身であり、実質的な大小の説はないのです。

原文:須菩提よ、菩薩もまた是の如し。若し是の言を作さく、我まさに無量の衆生を滅度せんと、即ち菩薩と名づけず。何を以っての故にか。須菩提よ、実に法有ること無くして菩薩と名づくるは是の故に、仏は説きたもう、一切の法に我・人・衆生・寿者無しと。

釈:須菩提よ、菩薩もまたこの通りであり、心の内に一つの法相にも執着せず、菩薩行を行じてこそ真の菩薩である。もしある菩薩が衆生を度そうと願い「私は無量の衆生を滅度すべきである」と言うならば、この菩薩はまだ真の菩薩ではなく、未だ実相を証得せず、実相の中に入ってはいない。なぜそう言うのか? 須菩提よ、実際の理の地においては、菩薩と呼ばれる法も、我と呼ばれるものも存在しないからである。よって仏は説かれる、一切の法の中に我・人・衆生・寿者というこの四相は存在しないと。

真の菩薩とは、既に実相を証得した菩薩である。実相を証得した菩薩は、心の中に再び世俗相を執取すべきではない。所謂世俗相とは、即ち四相である。まず菩薩は我相を持ってはならず、そうであれば菩薩相を持ってはならず、度される衆生相を持ってはならない。これらの相は即ち五蘊の相であり、全て如来蔵が幻化した仮相であって、実有の法ではない。それは丁度、天上の白雲が幻化した猫や狗の形象のように、実在の猫や狗を捉えることができず、全て白雲の相に過ぎない。真の菩薩は菩薩相を執取すべきではなく、我相を執取すべきではなく、衆生相を執取すべきではない。しかしながら、なおも私が無量の衆生を度し、これらの菩薩行を無心で行じなければならないのである。

——生如法師の開示
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