衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月15日    月曜日     第1 回の開示 合計915回の開示

一切法は自ら証得してこそ、疑いなく確信できるのです

一切の法は自ら証得し、現量において観察できることが、何よりも重要である。たとえ仏陀が直々に説かれた言葉であっても、自ら観察し実証した上で、初めて疑いなく確認できる。自ら証験した理は事実であり、事実は仏陀の言葉よりも確かである。仏陀の直説は伝来の経典よりも信頼に値し、経典はすでに他口や他手を経た転述に属するからである。経典は等覚菩薩の論より確かであり、等覚菩薩の論は他の菩薩の論より確かであり、他の大菩薩の論は凡夫の言葉より確かである。結局のところ、いかなる経論も実証に勝る確かさはない。

しかし現在では、たとえ仏陀が直々に法を伝えられたとしても、すべての衆生は経典を信受するのみで、仏陀の直説を信受することはできない。なぜなら仏陀が世に現れたことを知らず、自ら法義の正真を弁別する智慧を持たないからである。その場合の信仰は盲信や崇信に過ぎず、証信でも真信でもなく、ただ仏陀の名声と威望を信じているに過ぎない。もし衆生が仏陀が自ら娑婆世界に来て法を伝えると信じるならば、衆生は仏陀の姿を現した者の説くことを信じ、必ずしも経典を信じないであろう。たとえ経典が極めて正真であっても。これもまた衆生が仏陀及びその説法に対し盲信と崇信を抱き、証信ではないことを示している。もし仏陀の姿を現した者の説く法を信じるならば、波旬が仏陀の姿を現して法を伝えた場合、どう対処すべきか。その場合も完全に信じてしまい、やがて捻じ曲げられ、生死に沈淪し解脱を得られなくなる。

故に、千言万語を尽くしても実証こそが最も確かであり、ただ事実を信じ、真理を信じることが、全ての人々が従うべき規範である。真理を証得することは極めて困難なことであり、多大な福徳と智慧を要する。それ故に衆生は他者の言葉を信じざるを得ず、これも已む無き措置である。仏陀が入滅される際、弟子たちに四依四不依を厳しく戒められたのも、この四依四不依が極めて実践困難であり、福徳・禅定・智慧を欠くために、ほぼ九十九パーセントの人が達成できないことを示している。

一方で、実証を信じよと説くと、我慢深き一部の人々は自らの推論と解釈のみを信じ、これを自らの証得と見做し、実証者の説くことを信じなくなる。ますます慢心を深め、自他を欺き、結局は法の利益を得られない。末法時期の仏法修学の現象は、仏陀ですら対応に難渋されるほど、衆生は左か右に偏り、盲従か過信の我慢に陥り、智慧不足の者が適切な尺度を見極めるのは極めて困難である。まさに世医拱手の状態と言えよう。

——生如法師の開示
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