衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月15日    月曜日     第2 回の開示 合計916回の開示

意根の五遍行心所は想と念を含みます

ある人が意根には想や念がないと言いますが、八つの識にはすべて作意・触・受・想・思の心所があり、第八識にも想があるのです。ましてや執取性の強い意根にどうして想がないと言えるでしょうか。眼・耳・鼻・舌・身の五識にも想があり執取性があるのに、ましてや意根に想がないはずがありません。もし意根に想がなく、了別や執取性がなければ、意根は想によってさらに決定や選択を行うことができず、後の法がどうして生じるでしょうか。したがって意根には必ず想心所があり、これによって一切の法が心中に現れ、世俗界の生存を維持できるのです。ただ滅尽定においてのみ、意根は想心所を滅し、安らかに入定することができ、この定中で意根が思心所を滅し、五陰身が滅して無余涅槃に入り、三界から解脱するのです。

念について言えば、第八識にも念があります。六祖が壇経で述べたように、真如は無念無不念です。第八識自体に念はありませんが、一切の法は第八識が念い出すもので、第八識には七識のような心識活動はありません。八識規矩頌によれば、眼・耳・鼻・舌・身の五識にも念があり、五塵境を念じることができます。意根は五識よりはるかに活発で敏捷なのですから、さらに念を持つべきであり、五識より鈍く迂闊であるはずがありません。

もし意根に念がなく、何の法も念じないならば、第八識は意根に協調して意識を生じさせ五識を出生し、意根の考えに従って造作したり、あるいは他の一切の法を出生させることはできません。意根が法を念じる時、第八識は意根の念と選択に協調し、意識を生じて了別や追憶、想像、分析判断推理思惟を行わせます。意根の念がなければ、意識は何もできず、意識すら生じることがありません。

意根の念の作用を例えれば、意根が絶えず富を求めることを念じれば、意識はあらゆる手段を考えて富を得る道を探し、どんな機会も逃しません。もし意根にこの心念がなければ、意識はそのような造作を行いません。真の修行者の意根にはそのような念がなく、その心は清浄です。しかし修行者の意根には修道の念があり、絶えず修行を念じ、意識は常に仏法を考えます。ある者は意根で出家修道を絶えず念じ、意識は常に出家の準備をします。ある者は意根で極楽往生を強く願い、絶えず念仏を念じ、意識は常に仏号を念じ、声に出そうと出さないとにかかわらず、時至ることを予知し、阿弥陀仏が来臨して摸頂安慰されるのを感じることもあります。

もし意根が某人を念じ続ければ、意識の中に某人の形象が現れ、夢にも見ることがあり、あるいは昼間ふと某人と出会うこともあります。これらは全て意根が念じ出したもので、如来蔵も少なからず助力しています。意根が人事を気にかければ、夜眠れなくなったり、眠りが浅くなったりします。意根に心配事があれば、意識は完全に滅することなく、常に生じて意根を助けて物事を考え、朝には意根が意識を早く起こさせ、何事にも遅れないようにします。

念の定義は、過去の人や事柄を念じるだけでなく、将来現れる人や事柄、存在しない人や事柄をも含みます。意根が念じ続ければ、人が現れ事が起こります。これは誰にでも起こり、俗に「噂をすれば影」と言われるものです。某人を念じれば某人が現れ、何事かを念じれば何事かが起こり、心で願えばその事が現れます。これは如来蔵が意根を理解し、意根に寄り添い、可能な限り意根の念を無駄にせず、たとえ悪事を念じてもそれを実現させるからです。故に年配者は子孫に「不吉な言葉を口にせず、心にも不吉な事を思わず、何事も良い方向に考えるように」と諭すのです。

悪口や呪いとは、意根が人を呪うことで、心力が強ければ実現します。未来への渴望も念心所の範疇です。念力が強く福德が備われば、念じる人事は必ず現れます。願いが叶い、思いが成就するのは全て念力の作用です。背後には如来蔵がこれらの念を実現するのを助けるため、意根は必ず善事を念じ、善願を成就させねばなりません。

——生如法師の開示
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