昔、学人が禅師に尋ねました:「禅を参ずる時、如何にして心を用いるべきか?」禅師は答えられました:「心意識を離れて参究せよ」
問う:如何なるが心意識を離れて参究するというのか?
かつての仏道修行者は、ほとんど全員が禅定を得ており、禅定ある者は比較的修行しやすく、また修行の仕方を知っていたため、悟りの因縁が熟しやすかった。故に禅師たちは意根の本質を理解していなくとも、参禅の方法を知っており、弟子たちに「意による推量をせず、情に基づく解釈を離れ、意識を超えて、意識による推論を控えよ」という参禅の要諦を教えた。このような参禅の心の用い方は非常に深く、修行が着実であったため、禅師が堂上で説法する際、下座の者が即座に悟ることもあった。外見では容易に見えるが、彼らの修行は極めて徹底しており、一日中十二時辰、雑念を交えずひたすら参禅に専念し、田畑の労働や炊事、就寝時さえも修行に用いた。もし意識で修行すれば睡眠中に修行が途切れるが、意根で修行する時は眠りに落ちても支障がない。
その後、一部の者が真摯に修行しなくなり、三人や二人で群れをなして公案を研究し始めると、禅師は見るや杖で散らし、研究討論を禁じ、読書も許さず、仏経さえ閲覧させず、全身全霊で参禅に専念させた。
さらに時が下り、六祖壇経が広まると実践修行者は次第に減少し、人々は壇経を手に滔々と弁じ立て、自ら悟りを得たと思い込むようになった。こうして禅宗は衰退していった。現代人は当時よりもさらに雄弁を極め、口先では実修実証を唱えながら、足元は雲の上に浮かび、天梯も無いのに登れると錯覚し、真の修行を身につけず、皆が鸚鵡返しに説くばかりである。
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