衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年04月20日    土曜日     第3開示 合計1448開示

参禅の実践はいかにすべきか

かつて修行者が禅師に尋ねました:禅を参ずる時、どのように心を用いるべきか? 禅師は答えました:心意識を離れて参じよ。

問う:如何なるものが心意識を離れて参ずることか?

昔の仏教修行者は、ほとんど全員が禅定を得ており、禅定のある者は比較的修行に専念しやすく、修行の仕方も理解していたため、悟りの因縁が熟しやすかった。故に禅師たちは意根の本質を理解していなくとも、禅参究の方法を知っており、弟子たちに「意の下で推測するな、情や思惟で理解しようとするな、意識を離れ、意識による推論琢磨を控えよ」という参禅の秘訣を伝えた。このような参禅の心の用い方は非常に深く、修行の基盤が堅固であったため、禅師が堂上で説法する時、下にいる者たちは即座に悟ることができた。他人から見れば容易そうに見えたが、彼らの修行は非常に徹底しており、一日中、雑念なく心を集中し、全てを参禅に注ぎ込んでいた。田畑で働く時も、竈で炊事する時も、眠る時さえも修行を続けていた。もし意識で修行していれば、眠ると修行は途切れるが、意根で修行している時は眠っても支障がない。

その後、ある者は真面目に修行しなくなり、三人や二人で集まって公案を研究し始めた。禅師はこれを見ると棒で散らし、研究討論を許さず、本を読むことも禁じ、仏経さえも見せず、全身全霊で参禅修行に専念させた。

さらに後世、六祖壇経が広く流布すると、実修する者は次第に減っていった。誰もが壇経を手に滔々と弁じ立て、自分は悟ったと思い込んだため、禅宗は衰退し廃れていった。現代人は当時の者以上に滔々と弁じ立て、雄弁さでは勝るとも劣らず、誰もが語り、オウム返しのように言葉を繰り返すが、真の修行を持つ者は一人もおらず、口では「実修実証」と叫びながら、足は雲の上に踏み入れ、はしごもないのに登れると錯覚しているのである。

——生如法師の開示
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