我執を断った後も、自身の生存に関するいくつかの念いが残ります。人と接する際に念いなくしてはおらず、様々な境遇に遭遇した時には対処法を考える念いが生じ、衆生のために縁に従って説法する際にも念いが生じます。これらの念いは比較的清浄で微細であり、全て縁に応じた性質のもので、故意に作為的な念いではなく、自我への執着といった類の念いではありません。仏陀が世に来られた時にも念いはありましたが、それらの念いは全て清浄で無我無私なもので、何ら執着のないものでした。いくつかの識の心所法には念心所法が含まれており、識心の作用において念いの生起は避けられないからです。
しかし我執を断った者と断っていない者の念いには大きな違いがあります。念いはその人に執着があるかどうかを体現し、執着ある者の念いは強烈で、執着なき者の念いは微細です。心境は縁に従って軽やかです。
我執を断った者は来世に対する念想がなく、後世のための打算をしません。もちろん現世においては縁に従って周囲の一切に対応しながら生き、何ら追求するものなく、一日一日を生き、人と争わず、衆生を度することも同様に縁に任せます。縁あれば少し法を説き、縁なき時は思いめぐらしません。要するに、全ての念いの多くは受動的に生じるもので、自ら積極的に念いを起こすことは稀です。
対応する心構えの下では、意識の念いは明らかですが、意根の念いは淡いものです。意根の念いが淡く少ないため、意識の念いも少なく微細で、受動的であることが多くなります。意根に大きな心事や考えがないため、夢を見ることもなく、平常心で気持ちが安らかであり、心境は平和です。
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