仏は経典の中でこう説かれています。出家者が山中で一日中眠り続けることも、世俗の法の中で苦労するよりはましである。なぜならば、眠り続けることは修行ではありませんが、他の世俗の法に染まることもなく、次第に世俗への執着が薄れ、ついには世俗を思い悩まなくなるからです。そうなってから睡眠を減らせば、道業の進歩は早まります。
この道理は極楽浄土の蓮華宮殿に往生する状況と同じです。蓮華の中では世俗の環境から隔離され、染まる機会がなくなるため、心の執着は次第に断たれ、悪念は徐々に減少し、悪業の種子は枯れ果てます。心が清浄になれば蓮華が開き、仏に会い法を聞いて悟りを開くことができるのです。
これは最も愚直な方法ですが、それでも世俗の悪しき影響を受けるよりはましです。
したがって、いかなる者でも仏は出家を許されます。たとえ修行に励まなくとも、悪しき影響を減らせるからです。かつて仏陀が成道された後、ご自身の一族で出家できる者を皆出家させ、婚姻の有無にかかわらず、父である浄飯王と王位継承者だけを残されました。特に従弟の阿難陀に対しては強引な手段を用い、妻への執着が強い彼を通常の方法では導けぬと見て、寺院に連れ帰り帰宅を許しませんでした。その後天界と地獄を見せて初めて阿難陀は修道に専心し、還俗することなく四果の阿羅漢を証得したのです。このように出家がいかに重要か、仏陀が様々な方法で人々を出家へ導き、僧伽を建立して娑婆世界に留まり、縁ある衆生を仏門へ導かれた所以です。
当時出家を志す者が妻子ある場合、離婚せずとも妻子を他者に託し生活を整えればそのまま出家できました。たとえ新しい環境で妻子が苦労しても還俗して面倒を見ることはなく、道心は極めて堅固だったのです。
出家を望みながら果たせぬ者は、言い訳を探す必要はありません。ただ自らの心を観察すべきです。世俗への貪愛を断ち切れない、これただ一つの原因以外にないのです。
よく出家者が修行せず戒律を守らないと批判する声を耳にします。しかし戒律を守る者が出家を望まず、修行する者が僧門に入らなければ、僧伽は存続できません。出家者は世俗から来るのです。優れた人々が皆世俗を離れ出家すれば、僧侶は皆戒律を守り修行に励み、仏教は栄えるでしょう。今や多くの者は世俗に執着し、貪り続ける中で、もはや執着するもののない者だけが出家する状況では、寺院の僧伽が健全であるはずがありません。
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