衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年04月22日    月曜日     第1開示 合計1452開示

初果を証得する功徳とその受用

大小乗の見道位、すなわち初果は、あたかもある人に出会い、その人を知り、まだ十分に理解はしておらず、認識も深くはないが、ともかくも面会し、初歩的な認識を得たことに似ています。会わなかった時の理解や認知とは全く異なります。その後、その人と交流を重ねる過程で、次第にその人について一定の認識を持つようになり、印象が深まり、その言動について一定の理解を得ます。時が経ち、理解が深まるにつれ、認識も深く透徹したものとなり、信頼度は絶えず増強されていきます。

初果を証得して心が明らかになったばかりの時も、これと同じ理屈です。初果の見道は煩悩を断じたわけではありませんが、ともかくも無我を初歩的に証得し、自他の五蘊十八界について一定の認知を得ています。初果を証得する前とは全く異なるため、身心には何らかの変化が現れるはずであり、凡夫とは本質的な区別があります。煩悩は断じていませんが、煩悩は必ずある程度調伏されています。これが見道によって無我を証得した功徳の受用です。もし、初果は煩悩を断じていないから三果の者ではないとして、煩悩は凡夫と同じはずだと考えれば、それは大きな誤解であり、多くの人を誤導するに十分で、証果を得ていない多くの人までが自分は証果を得たと思い込み、煩悩が重いのは当然だと考えてしまいます。実際にはこれは正常なことではありません。もし煩悩に変化がなく効果的に調伏されていないならば、それは見道しておらず、実際に五蘊の無我を証得しておらず、まだ真に無我の理を認識していないことを示しています。このような見解を持つ多くの人は、自らの煩悩性を隠そうともせず、当然のこととして自分は証果を得て我見を断ったと思い込み、自らが言うところの果が真の果か偽の果かを全く疑わず、聖賢を装うことの因果の恐ろしさを知らないのです。

初果の見道を得た後、その後の様々な縁や境遇に直面しながら次第に五蘊十八界への理解と認知を深め、無我性が増強され、煩悩が再び調伏・軽減されると、二果の人となります。さらに五蘊の無我への認知を深め、五蓋を修して除き、次第に初禅定を発起すれば、貪欲の煩悩は滅します。続いて、瞋恚も滅するでしょう。どれほどの時間を要するかは定かではありませんが、貪欲と瞋恚の煩悩を断じた三果の人となります。さらに精進して修行を続け、五蘊の無我への認知を一層深め、見地が根深く固まり、全ての煩悩が脱落し、我執が断じ尽くされると、四果の阿羅漢となります。

凡夫から四果に至る修道の過程は、ある人について聞くことから、その人に会うこと、そして完全に熟知するに至る過程と似ています。初めて会っただけで、その人を非常に詳しく知ることは不可能です。初果を証得するのもこれと同じで、見道を得たばかりでは、無我について深く透徹した理解や認知を得て、続いて煩悩を断じることはできません。しかし、必ずや我見を断って無我を証得する前とは違い、変化があり、身心世界には必ず変化が現れ、初歩的な解脱の功徳を受用しているはずです。もし初歩的な解脱の功徳がなければ、真に我見を断ったわけではなく、真に見道して無我を証得したわけではありません。無我を知ったならば、我があることによる煩悩は調伏されるはずだからです。

——生如法師の開示
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金剛経唯識深義(一〇九)

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