なぜ衆生の様々な心を、如来はすべて知っていると言われるのでしょうか。ここでいう如来には二つの意味があります。一つは五蘊身を具える如来、つまり報身仏と応化身仏を指し、もう一つは五蘊身を持たない法身仏如来を指します。応化身仏は三大無量数劫の修行を経て一切種智を成就し、神通力が円満無碍に具わっています。その智慧は十方世界の無量無辺の衆生のすべての心の動きを徹見し、すべての衆生の心の念いを一時に了知します。どこに衆生の因縁が熟すれば、その場に応化して法を宣べ、衆生を度脱するのです。もう一つの法身仏如来は、衆生の心の動き、すなわち七識心が現行する過程における心の働きを了知します。如来蔵はこれをすべて知り、七識が現行を生起させて継続的に働くように配合するのです。したがって、衆生の種々の心とは妄心である七識を指し、金剛心如来蔵を指すのではありません。なぜなら如来蔵はただ一つであり、種々あるものではないからです。
如来蔵が衆生の心の動きを了知するのは、主に第七識である意根の心の働きを了別するためです。六識が六塵万法を了別する際に認識し思考する内容は、すべて意根に伝達されます。意根はこれに依って作意などの心所法を生起し、自らの思量と選択を行います。如来蔵は意根の作意と思心所を了別し、意根のすべての選択と打算を知ることができます。そして意根の選択に随順し、六識心の身口意行を生起させるのです。したがって如来蔵が意根の心の働きを了知すれば、六識の身口意行は意根の選択に従って現行します。意根が思量する内容は、すなわち六識が了別する内容です。ゆえに如来蔵が意根の心の働きを了別することは、六識の心の働きを了知することに等しいのです。如来蔵はまた衆生の業種を了別し、了別後に業種を出力することで、衆生がどのような心の働きを現起するかを知るのです。
しかしこれらの七識の心は、実は存在しません。表面的には存在するように見えますが、その存在は仮の存在に過ぎず、衆生が妄見・妄知によって作り出したもので、実体はすべて如来蔵心なのです。如来蔵が識の種子を出力して形成した七識の心も、実質は依然として如来蔵心です。衆生が七識の心があると妄見するものの、実質は如来蔵にほかなりません。すべて如来蔵自らが自らが変現した幻化の境界の中で戯れているに過ぎないのです。それゆえ如来は「諸心は皆な非心なり」と説かれるのです。ここでいう非心とは如来蔵を指すのではなく、七識の心を指します。つまり真実の七識妄心は存在せず、すべて第八識如来蔵であり、仮に諸心と名付け、七識と名付けているに過ぎないという意味です。
後に三心について補足説明されていますが、前後一貫して七識妄心を指しています。七識妄心は了不可得です。なぜなら実法ではなく、幻化された生滅法であるからです。それゆえ不可得と言われるのです。過去・未来・現在の三心は主に六識心、特に意識を中心とした心を指します。意根には過去・未来・現在の区別はありません。これらの心は捉えどころがなく、留めておくことができず、刹那に生滅し、念々に留まることがないため、これらの心は不可得であると言われ、実際に得られるものではないのです。
1
+1