衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年04月22日    月曜日     第3 回の開示 合計1454回の開示

仏法修証の目的とは何か

初果の聖者においては、比較的重い煩悩は確かに降伏されており、殺生・盗み・邪淫・妄語を再び造作することはありません。小さな煩悩は依然として存在しますが、凡夫と比べると心性には明らかな差異があり、効果的に制御されています。凡夫はこれを降伏させていません。しかし我見を断つ前の凡夫でも、修行の過程においてその煩悩は次第に制御され、修行を始める前とは異なります。無我を体得した者は煩悩がそれほど重くはありません。畢竟、初歩的な我見は存在せず、ただ無我の程度が異なり、心性の制御の度合いが異なり、解脱の功徳の受用が異なるだけで、全てに受用があり、部分的解脱を得ています。

仏法の全ての修行の目的は無明を断除することにあります。無明があれば様々な煩悩が生じます。つまり証果して心を明らかにすることは最終的に煩悩の問題を解決するのです。無明がなくなれば煩悩も消滅します。どの程度の無明を消除するかによって、それ相応の煩悩を降伏させ、あるいは断除します。我見を断じた初果が無明の煩悩の降伏と結びつかないのであれば、我見を断って心を明らかにすることに何の意味があるでしょうか。理論的知識を得るだけで良いのでしょうか。

理論的知識を学ぶ目的は何でしょうか。無明を断ち煩悩を断つためではないでしょうか。なぜ解脱できないのか、なぜ生死の苦があるのか。それは煩悩と無明が存在するからではありませんか。仏法を学ぶ根本的な目的を見失い、すでに混乱しているのではないでしょうか。現在、誰もが仏ではないのは何故でしょうか。様々な無明があり、異なるレベルの煩悩があるからではありませんか。

証果して煩悩を断つことは、太い根を断ち切るようなものです。根が完全に断たれれば四果に相当します。根が完全に断たれる前には、根は少しずつ切断され、次第に分断されます。初果を証することは既に根の切断を開始し、一部を既に除去した状態、すなわち三結を断った状態に相当します。二果では更に多くの部分が除去され、貪・瞋・痴が極めて淡薄になります。三果では貪欲と瞋恚が断たれ、根の大部分が除去された状態に相当し、大木はいつ倒れてもおかしくありません。根が完全に除去されれば、いつでも無余涅槃に入ることができます。

——生如法師の開示
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