意根を変えるには、おそらく一度の重大な事故で十分であり、意根は以前とは大きく異なるものとなるでしょう。信じられなければ試してみてください。火遊びをして重度の火傷を負えば、その後二度と火遊びをしなくなることを保証します。暴走運転で溝に落ちて骨折すれば、その後は暴走運転を恐れてできなくなるでしょう。「蛇に噛まれて朽ち縄に怖じる」とは、まさにこの意味です。
重大な出来事を経験すると、一部の人々には後遺症が残ります。例えば、他の人が類似のことを話題にすると、意根が心理的に恐慌状態に陥り、恐怖を感じ、震えがくるような場合です。他にも様々な状況があり、意根は二度とそれらの人や事柄に向き合いたくなくなります。虐待を一度受けた子供の中には、それが骨身に刻まれ、二度とその人物に接触したくなくなり、その名前を聞くことさえも拒むようになる子もいます。名前を聞いただけで、心理的に恐怖と不安に駆られるのです。
子供は初めて熱いものに触れた時、自然に避けます。寒さに遭遇した時は、自然に首をすくめ、全身を震わせます。これが意根が生まれつき持つ、冷たさと熱さの理解であり、誰かに教えられるものではありません。赤ちゃんが初めて叩かれた時も、泣き叫び、痛みを感じます。これも誰かに教えられたことではありません。赤ちゃんは生まれつき満腹と空腹を知っているので、お腹が空けば泣き叫びます。そして泣き叫ぶことも生得的なものであり、泣き叫び方を誰かに教わることはありません。
赤ちゃんのそうした痛みの感覚について、「これが痛みだ」「この時は泣くべきだ」「こうやって泣くべきだ」と教える人はいません。赤ちゃんが初めて両親に抱きしめられ、撫でられた時、とても心地よさを感じます。抱きしめられることが心地よい、撫でられることが心地よい、これが心地よさであり、こうやって心地よさを表現すべきだ、と赤ちゃんに教える人はいません。これらのことは誰にも教えられず、赤ちゃんは生まれつきそうするのです。
須菩提は仏弟子の中で空を解すること第一人者であり、前世ですでに一切の法は空であることを証得していました。そのため、母胎の中でも空であることを知り、生まれた時も空であることを知っていました。家の感応の中のすべての財産が完全に空じ去り、その後また財産がすべて現れました。この空こそが、意根によって証得されたものです。
ある事柄は、六識と五陰が和合して作用して初めて表出されるものがあり、五陰六識は新しいものであるため、学習と適応が必要です。そして、各人が学習する速度が異なるのは、意根の経験の違いによるものです。
意識は、仏法を学び始めた当初、すべての人の意識は同じように理解していません。しかし、間もなく差が現れてきます。ある人は一生涯学んでも、一句の念仏に留まり、お経を唱える段階に留まっています。ある人は一ヶ月もすると禅宗の経典を探して学び始め、一年後には禅を参究して悟りを開こうと志します。例えば、私自身がそのような者です。なぜこれほどの差が生じるのでしょうか? それは意根の経験の違いと、仏法を学んだ期間の長さの違いによるものであり、その時間差は無量劫を超えることさえあり、仏法を学ぶ上での差を非常に大きくしているのです。
各人の差は、まさに意根の差によってもたらされるものです。認めようと認めまいと、これが事実です。事実はあなたが認めようと認めまいと関係ありません。事実は誰が認めようと認めまいと気にせず、永遠に変わることはありません。真理は、たとえ娑婆世界に一人としてそれを認める者がいなくても、永遠に真理であり続けます。他人が認めないからといって、真理でなくなることはありません。真実の仏法は、誰が誹謗しようとも、仏法は仏法のままであり、真理は真理なのです。
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