衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年04月23日    火曜日     第2開示 合計1456開示

金剛経における唯識の深義(一一一)

世俗法における福徳の非真実性は、さらに別の観点から言えば、すべての福徳は因縁によって生じた法であり、布施は福果を得る因である。そして、このいわゆる因の中には、主に如来蔵の真実の因が存在している。布施が因となる際、如来蔵は五陰身を現起させて具体的に布施の行為を実行させると同時に、如来蔵は布施の業種を蔵する。その後、如来蔵は再び様々な縁に依存する。例えば、この人が財を成すには財を成す縁が現前しなければならず、権勢を得るには権勢を得る縁が現前しなければならず、眷属を得るには眷属を得る縁が現前しなければならず、長寿を得るには長寿を得る縁が現前しなければならず、名声を得るには名声を得る縁が現前しなければならない。このように縁が具足して現起する時、如来蔵が業種を出力し、この人は相応する福徳の果報を得ることになる。

これらの果報もまた、如来蔵が現起した五陰身が得て、五陰身が受用するものである。一つ一つの微細な環節には、すべて如来蔵の協力があり、すべて如来蔵によって幻化されたものであり、一つ一つの環節は虚妄で実体がない。したがって、全体的に言えば、布施のすべての行為、福徳を得るすべての過程、これらの因と果は、すべて如来蔵によって幻化され現起したものであり、ゆえにすべては虚妄で真実ではない。このため、仏は衆生が福を修め布施を行うことによって得る福徳は多いと説き、虚妄の法だからこそ多い少ないという数量の説があるのである。実相法においては、数量がなく、多少なく、大小なく、長短なく、方円もない……これらの福徳は表面上は存在しているように見えるが、存在は仮の存在であり、人の目を惑わすに過ぎない。その実質はすべて如来蔵である。

では、法施によって得られる福徳には実体があるだろうか。それは福徳性と言えるだろうか。受用し尽くすことはできるだろうか。法施によって得られる福徳とは何だろうか。法施によって得られる福徳は、二つの面を含んでいる。一つは世俗法における福徳を得ることであり、殊勝な色声香味触法を得ることである。もう一つは出世間法の福徳を得ることである。そして出世間法の福徳は、絶えず積み重なり、仏に成るまで至り、福徳は永遠に消滅せず、また受用し尽くすこともない。法施は、出世間の智慧を得させ、出世間の如来蔵実相法を証得させ、それによって智慧が絶えず増進し、段階を追って向上し、ついには菩提の果を円満にすることができる。したがって、法施によって得られる福徳は、その大部分が福徳性を具え、真実性を持ち、三千大千世界の七宝布施をはるかに凌ぐほど殊勝である。

——生如法師の開示
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