虚雲老和尚が南華寺におられた時、ある僧侶がおそらく作法に反する行為をしたため、執事の師父が別の師父を香板で打ったのを居士が見て、師父は慈悲心がない、どうして人を打つことができるのかと思った。しかしこのような現象は良くない。居士は出家者の戒律や寺院の規則を知らず、出家者を軽率に批評してはならないからである。後山の護法の竜王もこれに我慢できず、その僧侶を平手打ちした。虚雲老和尚はこれを知ると竜王を叱責し、僧侶たちのことに干渉することを許さなかった。これによって僧侶たちのことは僧伽が自ら処理するものであり、他の者はたとえ竜天の護法であっても軽率に干渉してはならないことが分かる。
すべての比丘が聖人であるわけではないので、必ず過失はある。しかし比丘に過失があっても、仏の制定した戒律に従い、僧伽羯磨を行うべきであり、在家の居士が軽率に批評・干渉するものではない。たとえ破戒の比丘であっても、その初発心で出家した功徳は依然として百千万億の在家者をはるかに超えている(経典には「破戒の比丘は戒がなくとも、初心出家の功徳は勝れ、百千万億の白衣人、功徳多くとも彼に及ばず」とある)。あたかも金製の容器が破損していても、完璧な木製の容器よりはるかに勝っているのと同じである。ある大徳は言われた:「破戒は人の屍の如しと言えども、なお残れる功徳あり、牛王死して苦胆を留むるが如く、麝香は麝の屍に具わるが如し」。
仏もまた金口をもって親しく宣言された。出家の弟子はたとえ戒を破っても、なお一切の世間の外道を超え勝っていると。出家者はたとえ戒を破っても、如来の袈裟を身にまとい、清浄な梵行者と共住し、常に三学の聖教を聞思するため、容易に慚愧心を発して罪業を懺悔し、改めて修行することができる。あたかも足の丈夫な人が不注意で地面に転んでも、すぐに起き上がるようなものであり、在家者はそうではない。
『讃僧功徳経』には、「たとえ欲火が心を激しく焼き、尸羅の清浄戒を汚しても、まもなく速やかに自ら懺悔し除くことができ、還って如来の聖衆の位に入る。人が一時的に道に迷っても、目があれば本の道を尋ねることができるように、比丘は世尊の禁戒を犯しても、一時的に犯しても還って滅することができる。人が平地で足を滑らせても、足があれば速やかに起き上がるように、比丘は一時的に尸羅を欠いても、犯してもまもなく還って補うことができる」とある。
経典にはまた、出家者はたとえ地獄に堕ちても水を叩くように、落ちてすぐに浮かび上がるが、在家者は石が水に沈むように、非常に浮かび上がりにくいと説かれている。
したがって縁ある者に勧める。決して如来の教えの下にある僧宝衆を毀謗してはならない。もし自らの悪心・悪行を抑制しなければ、将来業報が成熟した時には如来さえも毀謗するかもしれない。これによって僧侶を毀謗し、僧侶を害し、僧侶を悩ます身口意の悪業は、万々劫にわたり三悪道に沈淪し、出る期が難くなる。もし過去世の無知によって僧侶を悩ませ毀謗したことがあれば、今大恐怖を生じ、誠心を込めて告白し、哀れみを求めて懺悔し、未来際まで永遠に再び造らぬことを誓うべきである。
『大乗大集地蔵十輪経』には、「もし諸の有情が在家の相を帯び、髭や髪を剃らず袈裟をまとわなくても、一切の出家別解脱戒を受けることができず、一切の羯磨・布薩・自恣がことごとく遮遣されても、聖法を得て聖果を得るが故に、勝義僧に摂せられ、これを勝義僧という」とある。
末法の今この時、出家衆の中には玉石混交、良莠不齊であるが、否定できないのは、彼らは依然として人天の福田、仏法の住持者であり、もしその刹那の功徳に体相があるならば、大地も収容しきれない。今日の出家者がいなければ、たとえ現代の影像仏法も維持し難く、ましてや三皈五戒・菩薩戒などを具えた在家修行者などありえない。
したがって在家者は平等に一切の出家者を恭敬し護持し、軽々しく嘲笑・毀謗してはならない。もちろん依止する際には善き者を選んで随学すべきである。
もし出家者が戒を犯し悪行し威儀を破るのを見たら、直ちに清浄心を観じ、決して嘲笑・毀謗したり悪行を広めてはならない。在家者にとって出家者はあたかも尊長であるため、たとえ過失があっても清浄と観じ、委屈して守り、婉曲に巧みに諫めて護持し、たとえ彼を助ける力がなくても、決してその過失を暴露・宣揚してはならない。
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