『金剛経』を受持読誦することの功徳の大きさは、確かに言葉で述べたり描写したりすることは困難です。ほんの一部の例証を挙げてその概略を説明するだけでも、皆さんはその功徳の広大無辺さ、不可思議さを理解できるでしょう。例えば、菩薩が般若の実相を悟り、如来蔵に依って四禅八定を修めると、百、千、万、億もの意生身を現じ、それによって無数の衆生を利楽し、生死輪廻の苦しみを超越します。この功徳は真に計り知れず、比類なく、計算することもできません。その功徳は永遠に尽きることなく享受され、さらに無限に増大していくのです。
一方、大千世界の須弥山を布施する功徳も、非常に大きく数えきれないものではありますが、やはり有限であり、消耗し尽くされる可能性があります。この功徳は悪業を相殺することもできず、無明によって、福を享受している間にその功徳を利用して大きな悪業を造作するかもしれません。そうなれば悪業に従って悪報を受けることになります。悪業を造作する時、その功徳も損減・消耗し、最終的には功徳は様々な形で使い果たされてしまいます。しかし菩薩が『金剛経』を読誦受持する功徳は、損減しないばかりか増大し、功徳はますます多く、大きく蓄積されていくのです。
菩薩の智慧が絶えず増長するにつれて、その功徳は無数倍に増大していきます。菩薩が八地菩薩の果位に修めると、菩薩はほんの心に念じるだけで、三千大千世界を一つ現出させることができます。その中は七宝で満ち溢れ、須弥山よりも無数倍多く、菩薩はそれをすべて衆生に布施します。その功徳はもはや計算できません。菩薩はさらに多くの、衆生が必要とする様々な物質的な生活資具を現出させて、衆生に布施し利楽をもたらします。この功徳もまた計算できません。それに加えて菩薩は無数の分身を現じ、十方世界へ赴いて無量無辺の衆生を広く救い導きます。その功徳については、もはや計算する必要はありません。なぜなら根本的に計算する方法がなく、想像もできず、不可思議だからです。
これこそが八地菩薩が得る功徳、あるいは八地以前の菩薩が得る功徳であり、これらの功徳はどれも計算できません。では、菩薩がさらに等覚菩薩の果位に修めると、百劫の間に菩薩は無数の大身の衆生を現じ、無量の衆生が飢えを凌ぐために供養され、得られる功徳はさらに想像を絶するものです。さらに仏の果位に修めると、十方世界の無量の衆生を広く救い導き、得られるその功徳は、すべての衆生が共同で計算しても算出できず、あらゆる言葉でも表現できません。それ故に世尊は、『金剛経』およびその中の四句の偈を受持読誦する者の功徳は、七宝を布施する者の功徳よりも、無量百千万億倍どころではないほど大きいと説かれました。両者は真に比べようもないのです。
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