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日常法話

2019年04月27日    土曜日     第3開示 合計1468開示

意根の作意の心所法はいかにして引き起こされるのか

問:意根の作意は修行の要諦であり、その作用を知ることは修行に大いに資する。特に禅定の修習においては、その功力は意根にあり、意根を知らずしてどうして禅定を修めることができようか。凡夫の意根の作意は全て貪瞋と相応し、その例外はない。では仏菩薩の清浄なる意根は如何に作意するのか。意根に貪瞋も欲の動力もなければ、如何に作意するのか。意根は捨受の状態で作意し得るのか。意根は無記の状態で作意し得るのか。

答:意根の作意は貪瞋などの煩悩心所によって引き起こされるほか、欲心所によっても引き起こされる。欲には善欲と悪欲があり、また不善不悪の欲もある。善欲とは大願力であり、悪欲とは貪瞋痴の煩悩である。意根の作意の一部は習慣的な作意であり、意根の慣性作用によるものである。

瑜伽師地論の原文:云何能生作意正起?由四因故﹕一由欲力。二由念力。三由境界力。四由数習力。云何由欲力?謂若于是処心有愛著。心則于彼多作意生。云何由念力?謂若于彼。已善取其相。已極作想。心則于彼多作意生。云何由境界力?謂若彼境界或極広大。或極可意正現在前。心則于彼多作意生。云何由数習力?謂若于彼境界。已極串習。已極諳悉。心即于彼多作意生。若異此者。応于一所縁境。唯一作意。一切時生。

これは作意心所法が生起する縁:欲、念、境界、習性を説くものである。意根に攀縁があるのは、実際には欲と念があるためであり、弥勒菩薩が既に明確に説かれているように、欲と念がなければ作意することはできない。特に意根の欲と念である。意根が作意した後に初めて六識が生起し、六識が作意できるのである。意根は何を根拠に攀縁するのか。それは欲力と念力があるからである。もし欲力と念力がなければ、意根は無心となり、いかなる境界にも攀縁しようとせず、法に対して作意を生起せず、それに続く法は現れない。もし意根に欲心所がなければ、六識は何を根拠に欲心所を現出するのか。意根に欲がなければ、万法はどうして現れ得ようか。仏の意根にも欲心所があるのに、まして凡夫においておや。五識には全て勝解があるのに、意根にどうして勝解がないことがあろうか。それでは意根は如何にして六識の了別を理解し、自らが経験する一切の事柄を理解し、反応と対応を為すのか。

五遍行心所法の生起も、なお欲力と念力が先導し基礎となる。意根の欲力と念力は一切の法が現起する根本的な動力である。また意根の習性・慣性作用があり、欲と念がない時でも習慣的に攀縁作意するため、我々は自覚なく色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、触を感じるのである。時に意識はこれらの法を知ろうとしない場合もあるが。具体的な解釈は以下の通りである:

一者、欲力とは、意根が境界に対して貪着し愛着することを指す。そうして識心はこの境界上で絶えず作意し、絶えず思惟と決択を起し、如来蔵は新たな境界と心行を絶えず生起せざるを得なくなる。

二者、念力とは、意根が境界に対して絶えずその相を執取し、絶えず了知することを指す。識心はそうして初めて境界に対して絶えず作意心所を生起し、最終的に絶えず心思を起して決択し、如来蔵は絶えずそれに応じて後続の心行と境界を生起せざるを得なくなる。つまり欲と念がなければ識心は作意できず、特に意根の欲と念である。意根が作意した後に初めて六識が生起し、六識が作意できるのである。

三者、意根が絶えず作意するのは、また境界の力があまりにも強大であるため、識心を牽引して境界に対して作意せざるを得なくなり、それによって如来蔵がそれに応じて後続の心行と境界を生起するからである。

四者、頻繁に接触し非常に馴染んだ境界に対しては、意根はこの境界に多く作意し、思心所は絶えず生起し、如来蔵は絶えず後続の心行と境界を生起せざるを得なくなる。意根の串習力は非常に大きく、生生世世あるいは無始劫にわたり同じ法を熏習してきたため、後世にこれらの法や境界に遭遇すると絶えず作意攀縁し、その力は強大である。意識が強大でなければ制御できず、例えば貪欲、貪食、貪眠、貪財などの貪習はその通りである。

もし以上の四つの状況でなければ、意根はより少ない境界を縁とし、より少ない法に作意し、一つの法を思惟決択了別し、かつ一切時にわたってそうすることができる。したがって攀縁性とはまた意根の習慣的な作意を指す。禅定を修めようとするなら、意根の慣性的作意を制御し変化させ、その攀縁性を降伏させなければならない。

業種が成熟するか否かは、意根の作意と必然的な関係はない。業種が成熟するか否かは、如来蔵が自然に了知でき、その後如来蔵は相応する縁を生起し始め、業種に従って運行し相応する法を生起するのである。

——生如法師の開示
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