問:意根の作意は修行の要諦であり、その働きを理解することは修行に大いに資する。特に禅定を修めるにあたり、その功は意根にあり、意根を知らずして禅定を論ずることはできない。凡夫の意根の作意は全て貪瞋と相応するものであり、仏菩薩の清浄なる意根は如何に作意するのか。意根に貪瞋の欲求動力がなければ、如何にして作意するのか。意根は捨受の状態において作意し得るのか。無記の状態において作意し得るのか。
答:意根の作意は貪瞋等の煩悩心所によって引き起こされる他に、欲心所によっても生じる。欲には善欲と悪欲、また不善不悪の欲があり、善欲は大願力であり、悪欲は貪瞋痴の煩悩である。意根の作意にはまた習慣的な作意も一部存在し、これは意根の慣性作用によるものである。
瑜伽師地論の原文に曰く:如何にして作意正起を能く生ずるか。四つの因によってなり。一には欲力によって。二には念力によって。三には境界力によって。四には数習力によって。如何にして欲力によるか。謂わく、若し是の処に於いて心に愛著有らば、心則ち彼に於いて多く作意を生ず。如何にして念力によるか。謂わく、若し彼に於いて既に其の相を善く取り、既に極めて想を作せば、心則ち彼に於いて多く作意を生ず。如何にして境界力によるか。謂わく、若し彼の境界或いは極めて広大、或いは極めて可意なるものが正しく現在前にあれば、心則ち彼に於いて多く作意を生ず。如何にして数習力によるか。謂わく、若し彼の境界に於いて既に極めて串習し、既に極めて諳んじ悉せば、心即ち彼に於いて多く作意を生ず。若し此れに異なる者は、応に一の所縁境に於いて唯一の作意を以て、一切時に生ずべし。
これは作意心所法が生起する縁を説くものなり:欲、念、境界、習性。意根が攀縁する所以は、実は欲と念が存在するが故なり。弥勒菩薩が既に明らかに説かれた如く、若し欲と念がなければ作意すること能わず。特に意根の欲と念は重要なり。意根が作意して後に初めて六識が生起し、六識が作意し得る。意根は何を以て攀縁するか。即ち欲力と念力が存在するが故なり。若し欲力と念力がなければ、それは無心となり、如何なる境界にも攀縁せず、法に対し作意を生起せず、後の法は現れない。若し意根に欲心所がなければ、六識は何を以て欲心所を現出するか。意根に欲がなければ、万法は如何にして現出し得ようか。仏の意根にも欲心所が存在する。まして凡夫においてをや。五識には勝解が存在するのに、意根に勝解がなければ、如何にして六識の了別を理解し、自らが経験する一切の事柄を領得し、反応と対応を為し得ようか。
五遍行心所法の生起も、やはり欲力と念力が先導し基礎となる。意根の欲力と念力は一切法が現起する根本的な動力なり。更に意根の習性・慣性作用も存在する。欲と念が無い時でも、習慣的に攀縁作意する故に、我々は無意識に色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、触を覚える。時に意識はこれらの法を知ろうとしない場合もあり。具体的な解釈は次の如し:
一者、欲力とは、即ち意根が境界に対し貪着・愛着することを指す。これにより識心は此の境界において不断に作意し、不断に思惟し択択し、如来蔵は不断に新たな境界と心行を生起せしむ。
二者、念力とは、意根が境界に対し不断に其の相を執取し了知することを指す。識心は不断に境界に対し作意心所を生起し、遂には不断に心思を起こし択択し、如来蔵は不断に後続の心行と境界を生起せしむ。即ち欲と念がなければ識心は作意できず、特に意根の欲と念が重要なり。意根が作意して後に初めて六識が生起し、六識が作意し得る。
三者、意根の不断なる作意は、境界の力が余りに強大であるが故に生ずる。境界が識心を牽引し、作意せざるを得なくする。如来蔵はこれに応じて後続の心行と境界を生起せしむ。
四者、常に接触し非常に慣れ親しんだ境界に対し、意根は此の境界に多く作意し、思心所は不断に生起し、如来蔵は不断に後続の心行と境界を生起せしむ。意根の串習力は極めて強大なり。生生世世或いは無始劫に亘り同じ法を熏習する故に、後世此等の法と境界に遇えば不断に作意攀縁し、その力は強大なり。意識が強大でなければ制御し難く、例えば貪欲・貪食・貪眠・貪財等の貪習は此の如し。
若し以上の四種の状況に非ざれば、意根は較べ少ない境界を縁とし、較べ少ない法に作意し、一つの法を思択了別し、且つ一切時に於いて此の如く為し得る。故に攀縁性とは即ち意根の習慣的な作意を指す。禅定を修めんと欲すれば、意根の慣性的作意を制御し改変し、其の攀縁性を降伏せしめねばならず。
業種の成熟の有無は、意根の作意と必然的な関係を有さず。業種の成熟の有無は如来蔵が自然に了知し、然る後に如来蔵は相応する縁を生起し、業種の運行に従い相応する法を生起せしむ。
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