先ほど一曲聴き終えたばかりなのに、頭の中ではまだそのメロディーが反響しており、これは意根が念じ、意識が歌曲を回想しているのである。もし仏法を学ぶことがこれほど早く、これほど容易であれば、なんと素晴らしいことか!世俗法の熏習は速いが、仏法の熏習はあまりにも遅い。なぜなら、世俗法はあまりにも長く熏習されてきたからだ。世俗法がどれほど長く染みついてきたか、計算できないほどである。仏法が染みついた時間はどれほどか、世俗法と比べるとあまりにも短い。観日は何ほど難しいか、何ほど細かいか?明らかにそうではないのに、どうしても観想が成就しないと言うのは、以前に観想したことがなく、心が興味を持たないからこそ、このようになるのである。世俗法は何ほど興味深く、何ほど馴染み深いか、それを出現させたくなくても抑えきれない。修行とは生の処を熟に転じ、熟の処を生に転ずることである。生の処は仏法、熟の処は世俗法である。肝心なのは転換できることであり、転換しようとする決心を持つことである。
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