衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年04月29日    月曜日     第1 回の開示 合計1473回の開示

金剛経唯識深義(一二六)

須菩提よ。如来が『我あり』と説くのは、実に我あるにあらず。しかるに凡夫の者は我ありと思いなす。須菩提よ。凡夫とは、如来の説くところによれば、すなわち凡夫にあらず。

釈:世尊は引き続き須菩提に説かれた。如来の説く「我あり」とは、真実に我が存在するのではなく、凡夫たちが我ありと錯覚しているのである。彼らはこの五蘊の活動を真実なりと捉える。須菩提よ、いわゆる凡夫衆生とは、如来の説くところによれば、実在の凡夫衆生ではなく、仮に凡夫と名づけるに過ぎない。

諸仏が衆生に法を説く際、時に「我」という言葉を用いて事柄を叙述するが、これは方便説法である。「我」の字を用いなければ、衆生は世尊の説く内容を理解できず、正しく把握することができない。故に諸仏が「我」と説くのは、衆生との交流を円滑にし、教化を容易ならしめ、衆生が説法をよく理解できるようにするためである。諸仏は口に「我」と説きながら、内心は完全に無我であり、自らの五蘊を我と見做すことも、無垢識や仏性に執着することもない。故に諸仏如来は悉く徹底的な無我を体現されている。

凡夫衆生は心の底に我ありと思い定め、この我を実在と見做す。彼らは色身を実体ある我と認め、身体の五官・骨格・筋肉・皮膚・内臓など各部位に実在の機能があると信じ、これを我あるいは我の所有物とし、貪愛と執着を生じ、他者の侵害を許さない。凡夫は色身に生起する六識(色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を知る)の機能作用を実在と見做し、これを我あるいは我の所有物とし、貪愛と執着を生じ、看過することができない。

凡夫は色身に生起する六識の諸々の覚受を実在と見做し、これを我あるいは我の所有物とする。かくて固く執取し、感官の諸々の刺激を追求する。逆境に遭えば、内心は苦悩と瞋恚に満たされる。凡夫は色身に生起する諸々の了知性(思惟・分析・判断・推理の機能作用)を我あるいは我の所有物と見做す。これにより貪愛と執着を生じ、心念を休めることなく、常に一切法を感知しようとする。

凡夫は色身に生起する諸々の触覚を実在と見做し、これを我あるいは我の所有物とする。かくて諸々の触塵に執着し、快適な生活と享楽を求め、いかなる代償をも厭わない。凡夫は色身に生起する諸々の行為造作を実在と見做し、これを我あるいは我の所有物とする。かくて絶えず奔走労苦し、一切の事業を営み、身口意の行為を造作し続け、休歇することを知らない。

凡夫衆生は無始劫来、このような誤解と錯覚を繰り返し、絶え間なく執取し、六道を辛苦奔走して疲れを知らず、まことに憐れむべき存在である。如来は衆生の愚痴と苦痛を憐れみ、世に出現して五蘊の一切法が本来我ではなく、我の所有物でもないことを宣説される。五蘊は縁によって生起し、生滅変異し、作用はあれども幻化不実である。譬えば砂と水が和合して泥となり、泥で五蘊色身を捏造するが如し。咒力が泥身に作用すれば、泥人は種々の行為造作をなす。愚痴の凡夫はこの理を知らず、泥人の仮相に執取して真実の人にあらざることを悟らない。智者は即ちこれを知り、泥人の仮相を取らず、ただ泥とその用い方のみを認める。

世尊はさらに説かれる。五蘊を我と執取する凡夫も、実在の凡夫ではなく、幻化によって存在する五蘊相であり、その本質は空である。ただ言語交流のため仮名を設け、凡夫と名づけるのみで、その本質はその人の如来蔵に他ならない。金を用いて器を作れば、器々皆金なり。泥で人を捏ねれば、人々皆泥なり。如来蔵は一切法を幻化し、一切法ことごとく如来蔵なり。これを一真法界と名づけ、他に何物も存在せず。もし人が一切法を実有と見做せば、これを病眼と名づけ、一切を真如と見做せば、これを慧眼・法眼・仏眼と名づけ、皆大智慧の眼なり。

凡夫衆生は五蘊を我あるいは我の所有物と見做す。この「我」とは誰を指すか。この我とは第七識意根を指す。第七識はすべてを我あるいは我の所有物と見做し、飽くことなく貪求する。実際、第七識は錯覚に陥っており、これらが自分自身でもなく、自らの機能作用でもないことを知らない。その主たるものは第八識の機能作用であり、さらに六識の機能作用を含む。そして六識の機能作用の本質も、実は第八識の機能作用である。明心して悟りを開けば、第七識意根は覚醒し、これらが本来我ではないことを知るようになる。初地に入れば、次第に諸法への執着を放ち、五蘊世間を抓取しなくなる。

すべての三昧は定境と智慧の結合を必要とし、いずれかが欠けても真の三昧とは言えない。ただし、定境のみで智慧を伴わぬものは単に定境と呼び、智慧を内包する定境を三昧と称する。定境の範囲は浅く狭く、三昧の内実は深く広大である。即ち三昧は必ず定境を含むが、定境のみでは三昧とは言えず、智慧がなければ三昧とも定境とも称されない。

——生如法師の開示
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